宝物殿

宝物殿

阿弥陀如来像

阿弥陀堂にはご本尊である阿弥陀如来像が安置されています。

蓮教上人以来、本山興正寺のご本尊として幾多の変遷を見守ってこられました。

親鸞聖人御真影

御影堂に安置されている親鸞聖人のご真影は聖人四十歳のお姿を刻したものとされ、壮健な雰囲気をただよわせています。

十字名号 1幅

 

室町時代
絹本着色
縦118.8㎝×横31.0㎝

 十字の尊号に光明を配した本尊である。尊号は金泥ではなく切箔で書かれ、上部の賛文は色紙型を作り、天親菩薩『浄土論』の文が墨書してある。『浄土論』の賛文は下部に配置されるのが通例であるが、表装を改める際に上部へ誤置されたと考えられる。上賛の下一文字すべてが名号部に隠されており、完全な形を見ることができない。賛文の末尾には「恵光親鸞敬信尊号」と墨書されている。興正寺『霊宝之品目』には、「真筆十字名号 世ニ曰ニ真宗本尊最初の名号一山科興正寺建立之安置仏也」として伝えられるものである。これまで親鸞聖人筆の賛文として伝えられてきたが、蓮如上人の筆と推測される。この十字名号は、佛光寺から本願寺へと参入した興正寺第十四世蓮教上人に授与されたものではないかと考えられる。

上宮皇太子尊像 1躯

 

年代未詳
木像
像高13.3㎝

 上宮皇太子(聖徳太子)の孝養像である。孝養像は、太子16歳の時に父である用明天皇の病気平癒を祈願したという『聖徳太子伝歴』の説話に由来しており、真宗寺院で広く流布している尊形である。髪は左右に分けて巻上げ美豆良に結い、あげ頸袍の上から袈裟を着用する。左手は右肘の下をめぐって前面に引き寄せられた横被の端を握り、右手には柄香炉を正面に捧持していたことが窺い知れる。本来は袴を着用するが裳が下まで伸びており、足には短沓を穿いている。俗形である美豆良・袍と、僧侶の正装である袈裟・横被・柄香炉の組み合わせは、太子が在家の身でありながら深く仏法に帰依していたことを表現しようとした配慮であると考えられる。

七条袈裟 1領

年代未詳
縦99.0㎝×横208.0㎝

 

 興正寺『御宝物御縁起』には「是御袈裟ハ聖人九歳ノ春、御得度ノ時、慈鎮和尚ヨリ祖師聖人ヘ御付属御伝来ナリ。御袈裟ノ地ハ安楽庵二重蔓ノ古金襴ナリ」とあり、興正寺『霊宝之品目』にも「古金襴七条 世ニ安楽庵二重蔓ト云 黒描金筥入 大師九歳ノ春慈鎮和尚ヨリ付属」として伝えられてきたものである。安楽庵金襴とは、京都誓願寺竹林院に住し、落語の祖と呼ばれた僧、安楽庵策伝(1554-1642)所持の名物裂および前後400年間にわたる金襴一群の総称である。田相は、安楽庵金襴の裂地を数種類用いて作られており、裏地は紫の薄絹が用いられている。黒漆地の箱には、撫子が描かれている。裂地の特徴などから安土桃山時代以降のものと考えられるが、興正寺においては親鸞聖人御得度の七条袈裟と伝持されてきた。

御蓑 1枚

 

年代未詳
縦77.3㎝×横112.1㎝
(箱縦80.9㎝×横40.0㎝)

 興正寺『御宝物御縁起』には、「祖師聖人関東北国御経廻御苦労ノ時メサセラレシ御蓑ナリ」と記され、親鸞聖人が関東教化の時に身に付けていたと伝えられる蓑である。藍染と渋色の布地に藁を挟み留めている。箱は、黒漆地に金泥抱牡丹紋が描かれ、内蓋が格子状になっている。江戸時代中期以降、興正寺はたびたび法宝物披露を行うが、この格子付の箱に納めて披露していたのではないかと推測される。

手皮血書仏号(女人往生証拠の名号) 1基

 

年代未詳
総高13.4㎝

 親鸞聖人が自らの手皮に血書された六字名号として伝えられ、その縁起が「手皮血書仏号添書」に記されている。手皮血書名号は、仏舎利塔に模した厨子の中央に収められる。左右壁面に蓮が彫られた厨子は、蓮台の上にのせられ、内側は和紙や金銀箔によって荘厳されている。函蓋裏書には「明治十丁丑歳春月内龕修理 廿五世大教正本寂謹識」と記されている。補足として、興正寺第27世本寂上人が自らを25世と記載していることに注目しておきたい。

手皮血書仏号添書(女人往生証拠の名号添書) 1通

年代未詳
縦35.0㎝×横145.0㎝

 

手皮血書仏号添書には、手皮血書名号の縁起、興正寺伝来の経緯などが示されている。添書によると、親鸞聖人が関東稲田の草庵に居を構えていた時、集まった人々の中に浄土往生を信じることのできない女性がいた。聖人はその女性一人を導くことが出来なければ、すべての女性を導くことも出来ないと、自ら手の皮を剥ぎ取り、その手皮に自らの血で「南無阿弥陀仏」と書いた。そして「阿弥陀如来の誓願は女人をも必ず救うと誓われているが、もしもこの誓願がまことでなければこの傷も癒えないでだろう。もしもこの傷が癒えたならば、女人往生の誓願がまことである証拠となろう」と言うやいなや、聖人の傷はたちまちに完治したという。その後、手皮血書名号は、女人往生の証拠として興正寺第2世真佛上人に付属され、興正寺に伝持されてきたとされる。

浄土三経往生文類(広本) 親鸞聖人 1冊

 

鎌倉時代 康元2年(1257)
紙本墨書 袋綴 紙表紙 布表紙 黄櫨染布表紙
縦26.5㎝×横21.0㎝

本書は、康元2年(1257)親鸞聖人八十五歳に撰述されたものである。建長7年(1255)の奥書をもつ西本願寺所蔵の略本に対し、広本と呼ばれている。表紙は本来の紙内表紙の上に、布中表紙、その上に桐竹鳳凰麒麟紋があしらわれた黄櫨染布表紙が付けられている。

内表紙から中表紙に補修される際、三つ穴綴から四つ穴綴に改装されている。外表紙への改装は、本書包装に「直筆三経文類集ノ表紙 弘化某年摂信手修理而替 今表紙弘化帝著御黄櫨染御袍之裂関白政道公贈之」と記されている。袋綴で半葉5行、1行13字内外。表紙に「三経往生 俊直」とあるものは、一般的に親鸞聖人直筆とされている。また表紙に「浄土三経往生文類 平俊直」とあるものは本文と同筆であり、これらを聖人真筆と定めるかは意見が分かれる。

ちなみに「「平俊直」とは、従来藤原定家の日記『明月記』元久2年11月30日の条下に「玄番允 平俊直算」と記される人物であるとされる。題号の「文類」が示す通り、経典や論釈の文言を類聚する文類の形式で著されている。訓点と振り仮名が朱・墨筆で施され、御自釈が仮名交じりで記されている。内容は、『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三経について、他力念仏難思議往生・自力諸善双樹林下往生・自力念仏難思往生のあることを述べ、それに註釈を施し、真仮を明かしたものである。

八角宝塔 1基

 

安土桃山時代 文禄元年(1592)
総高12.4㎝

 仏舎利に見立てられた親鸞聖人の御遺骨が、八角形からなる大小二層の台座の上に載せられた火焔宝珠形の舎利器に納められている。聖人御遺骨は、興正寺第17世顕尊上人が浄興寺(上越市高田)より譲り受けたものである。顕尊上人が浄興寺に宛てた文禄元年(1592)9月25日付の御礼状が同寺に現存している。文禄元年は、興正寺が大阪天満から堀川七条へと寺基を移転した翌年である。

六角宝塔 1基

 

江戸時代初期 明暦元年(1655)
総高13.5㎝

 仏舎利に見立てられた親鸞聖人の御歯骨が、六角形の台座より伸びた火焔宝珠形の舎利器に納められている。御歯骨は、興正寺『御法物御縁起』によると「聖人四十八歳ノ時ニ落サセラレシ御肉付ノ御歯、并ニ満九十歳御往生ノ時、御火葬ノ御歯骨也」と伝えられるものである。興正寺第19世准秀上人が浄興寺(上越市高田)より譲り受けたものであり、浄興寺に宛てた4月11日付の御礼状が同寺に現存している。准秀上人は、承応の鬩牆の際に別派独立を企図したとして、明暦元年(1655)に越後国高田今町(上越市直江津)への逼塞を命じられている。また越後国長岡には弟蓮乗が入寺した正覚寺がある。越後国へ逼塞した准秀上人がなんらかの経緯で浄興寺より御歯骨を譲り受けたと推測できる。

『選択集』(延書) 法然上人 2巻6冊

 

室町時代末期
紙本墨書
粘葉綴 藍地紙表紙
縦23.2㎝×横15.5㎝

 正式名称は『選択本願念仏集』である。『選択集』は、関白九条兼実の請いにより、法然上人が建久9年(1198)に選述したものである。本書は漢文で著された『選択集』を漢字仮名交じりに書き換えた延書本である。本上・中・下、末上・中・下の2巻6冊で、半葉5行、1行13文字内外。漢字には振り仮名、朱筆の圏発四声点(平声・上声・去声・入声)があり、左訓も多少みられる。このような特徴は、本願寺第3世覚如上人の高弟乗専が明善のために貞和2年(1346)に書写した延書本と近い。乗専は興正寺第7世了源上人に代わって佛光寺太子像の開眼供養の導師を行った人物で、後に出雲路派毫摂寺を開いた人物である。

『往生要集』 源信僧都 6冊

 

室町時代中期
紙本墨書
粘葉綴 渋地紙表紙
縦26.1㎝×横16.9㎝

 『往生要集』は、恵心僧都源信和尚が寛和元年(985)、45歳の時に撰述したものである。経論などから往生極楽に関する要文を集め、同信同行の念仏結社の指導書としての性格が強い。「厭離穢土・欣求浄土」は、末法思想に生きる民衆に広く受け入れられ、後の仏教思想や文学にも大きな影響を及ぼした。本書は、承元4年(1210)版『往生要集』の覆刻本である。表紙には金紙の題箋に外題を墨書し、見返には「華恩」の朱文方印がある。覆刻本には足利(室町)時代中期と江戸時代初期の2種類の刊本があるとされ、本書は、足利時代中期の刊本と考えられる。奥書の永元4年は誤刻である。上中下の3巻6冊で、半葉6行、1行17文字。第3帖と第4帖に角筆が確認できる。

『正信偈』・『文類偈』・『三帖和讃』 全5冊

 

室町時代中期
紙本墨書
粘葉綴 藍地紙表紙
縦27.6㎝×横20.0㎝

 『教行信証』「行巻」末の偈文「正信念仏偈」、『浄土文類聚鈔』の「念仏正信偈」(文類偈)、「三帖和讃」が、「和讃三冊 正信偈二冊」と墨書された箱に納められている。「正信偈」の1冊のみに別表紙が付けられ、「正信念仏偈」の外題と「蓮秀」の袖書がある。5冊には、漢字の四隅に四声を示す圏発(平声・上声・去声・入声)が朱筆で付されており、「正像末和讃」の最後には、四声の清濁緩急(漢音=「・」、濁音=「一」)を図示する凡例を掲げている。本書は、勤行用にまとめられたものであり、興正寺大15世蓮秀上人が日常的に用いたものと考えられる。四声の凡例は、親鸞聖人真筆「三帖和讃」草稿本の「正像末和讃」巻尾に、専修寺蔵国宝「三帖和讃」の「高僧和讃」巻首に掲げられている。従来本書は、河内八尾慈願寺に現存する河州本の書写本とされている。

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