【百九十五】承応の鬩牆 その四 月感の頑なな性質

2019.08.27

 月感は承応二年(一六五三)一月二十七日、西本願寺で西吟に、直接、批判の言辞をあびせますが、それで月感の西吟を非難する思いが消えたわけではありません。月感の西吟を非難する思いは、こののち西吟の言動を見聞するにつれ、ますます強まっていきます。

 

 西吟への批判を強めた月感は、西吟の非を訴状に書いて、それを西本願寺の良如上人に提出しようとします。月感が訴状の提出の準備を進めていることは周囲の人びとにも知られ、人びとは月感に提出を思いとどまるように説得しました。西吟に非があるならば、まず、学寮に行って西吟とそれを話し合うべきであって、話し合うこともせずに最初から良如上人に訴えるというのは良くないことだ、というのが人びとの意見です。しかし、月感はそうした人びとの提言を一向に聞き入れることはありませんでした。月感は今回の上洛以前の正保三年(一六四六)の正月、西吟の寺である小倉の永照寺で西吟と面談したことがありますが、その時の面談は二人のいい争いとなって終わりました。以後、二人の仲も不和なものとなりました。月感はそうしたことを示して、だから、いまさら話し合いをしたところで、いい争いとなるだけだ、といいました。

 

 月感の寺である熊本の延寿寺は興正寺の末寺であり、月感は興正寺の准秀上人の三男である圓尊師を養子として迎えています。興正寺の関係者も月感の行動を好ましくは思ってはおらず、月感に訴状を提出することをやめるように説得にあたりました。事を荒立てるようなことはやめるべきだ、というのが関係者の思いです。月感と准秀上人が近しい関係にあることから、興正寺では興正寺の家臣の筆頭にあたる下間重玄が月感の説得につとめました。下間重玄は何度も月感の説得にあたっています。しかし、それでも月感は訴状の提出をやめようとはしませんでした。

 

 為法為師、可惜身命事ニアラズ(『承応鬩牆記』)

 

 月感は重玄に、西吟を訴えることは法に背き師にも背いている西吟に対し、法と師を守るためであり、そのためには身命を惜しむべきではない、といいました。
月感がついに重玄の説得には応じなかったことから、今度は准秀上人自らが説得にあたることになりました。

 

 准秀上人は幾度ともなく、重玄を介して月感に自分の意見を伝えたり、直接、会って月感に意見を伝えたりしました。准秀上人の意見は、学寮は良如上人が設けたものであり、学寮の能化の西吟も良如上人が任命したものであるから、西吟に非があるなら、それは良如上人の非となり、良如上人を批判することになるので、訴状を提出することをやめるようにというものでした。あわせて准秀上人は月感に、学寮の運営には良如上人の側近の人びとも関わっているので、いくら西吟を批判しても、それらの人びとは西吟の味方になるであろうから、訴えたにしろ、思ったような結果にはならない、ということも伝えました。しかし、再三にわたる准秀上人の説得にも月感は耳を貸しませんでした。それどころか訴状の提出をやめさせようとする准秀上人に対し、准秀上人を非難する言葉さえ口にしました。

 

 扨々嗟敷御心底候・・・法流ノ乱レ行クヲ、目前ニ見ナガラ、身ヲ惜ミ家ヲ惜ミテ、是ヲ不諫事ノ可候歟(『承応鬩牆記』)

 

 月感は良如上人に遠慮する准秀上人に、准秀上人のそうした心のあり方は何とも嘆かわしいものだといったとあります。さらに月感は、教えが乱れていくのを目にしながら、自分のことばかりを思って、諫めようともしないなどあってはならないことだともいったとあります。このほか月感は准秀上人に、そうした考えなら、今後は興正寺の門下を離れるともいいました。

 

 憚カル所ナク被申候ニヨリ、興正寺殿モ不被及力候也(『承応鬩牆記』)

 

 憚るところのない月感の激しい言葉に、准秀上人ももうどうすることもできなくなってしまいました。

 准秀上人をはじめとする人びとの説得にもかかわらず、結局、月感は訴状の提出を思いとどまることはありませんでした。月感の態度は頑なですが、こうした強硬さは月感の持って生まれた性質なのだと思います。月感はとかく自分の意見だけを主張する人です。自分が折れ、譲歩するということはありませんでした。

 

 月感が訴状を提出する準備をやめなかったため、やがてこのことは良如上人の知るところとなります。月感が準備を進めていることを知った良如上人は、逆に良如上人の方から、月感に対し、訴状を提出するように要望してきます。

 

(熊野恒陽 記)

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