【二百十一】承応の鬩牆 その二十 西本願寺の教えは誤っているとの主張

2019.08.27

 月感、西吟の争いは、准秀上人、良如上人をも巻き込み、准秀上人が興正寺は末寺ごと西本願寺の門下を離れるといったようなことを主張するまでに進展していきます。月感と西吟が争ったということと、興正寺が門下を離れるということは、かなりへだたりのある話のように思われますが、准秀上人にしてみれば、これは一連のことです。西本願寺は月感を処罰しようとしました。月感の教学の理解は誤りとし、西吟の理解が正しいとしていることになります。これに対し、准秀上人は月感の側に立ち、月感の理解を正しいとします。月感が正しいのなら、西吟は誤っているということになります。西本願寺はその誤った理解に依拠しているのであり、誤った教えを説いていることになるのです。誤った教えを説く西本願寺に服する必要はなく、だから興正寺は西本願寺の門下を離れるのだというのが准秀上人の主張です。

 

 准秀上人は西本願寺が誤った教えを説いているということを根拠に西本願寺の門下を離れると主張しています。誤った教えを説いているということの根拠は西本願寺が西吟の理解に依拠しているということに求められています。誤った教えを説いているのは門下を離れることの根拠としては正当なものです。しかし、その前提となる西本願寺が依拠する西吟の理解が誤っているということそのものは、十全な根拠のある主張だということはできません。西吟の理解が誤っているといっているのは月感であり、それに同調した准秀上人です。西吟を誤っているとする人びとは月感と准秀上人以外にも大勢いましたが、それでもすべての人たちが西吟は誤っているとしていたわけではありません。西吟が正しいとする人びともいました。これでは誤っていることの根拠とはなりません。西本願寺が誤った教えと説いているというのはあくまで准秀上人の側からの主張なのです。この後、准秀上人は西本願寺の門下を離れることに向けた行動を続けますが、それとともに西本願寺の教えは誤っているということもいい続けます。門下を離れるために教えが誤っているといい続けなければならなかったのです。

 

 准秀上人が西本願寺が誤った教えを説いているために門下を離れると主張しているといっても、誤った教えが説かれているというのは准秀上人が門下を離れようと思った理由の一部であるにすぎません。門下を離れようと思った理由はほかにもあります。教えが誤っているということが門下を離れることの正当な根拠となるためにあえてそれを強調しているのです。

 

 承応二年(一六五三)十二月二十一日、天満に向かうため京都を出て以降、准秀上人は度重なる西本願寺よりの京都に戻るようにとの説得を拒否し続けていましたが、京都を出てから二箇月後の承応三年(一六五四)の二月二十一日、一旦、京都へと戻ります。

 

 興正寺殿御上洛候、今度正僧正御官位勅許ニ付、其為御礼云々(『承応鬩牆記』)

 

 僧正の官職が勅許されることになり、その礼のため京都に戻ったと書かれています。京都に戻ったあと、准秀上人は上京の御所の近くに滞在しました。准秀上人はこの後、三月十日に正式に僧正に任ぜられます。

 

 准秀上人が京都に戻った翌二十二日から西本願寺では良如上人の父の准如上人の二十五回忌の法要が始まります。法要は二月二十二日の逮夜から七昼夜にわたって執り行なわれました。准如上人は准秀上人の妻の祐秀尼の父です。准秀上人も法要に出仕しなければならない立場ですが、准秀上人が法要に出仕することはありませんでした。京都には勅許への礼のために戻ったのであり、法要のために戻ったのではないのです。

 

 この法要には多くの一家衆寺院の住持が集まりました。法要に出仕した一家衆寺院の住持たちは話し合い、代表が准秀上人のもとを訪れるということにしました。住持たちは、当初、准秀上人が天満にいると思っていましたが、上京に滞在しているということが分かり、代表、三人が上京の准秀上人のもとを訪ねました。一家衆の代表が准秀上人に京都の興正寺に戻るようにいったところ、准秀上人は、この度のことで面目を失い、それが遠くの地域にまで知れわたってしまったので、その代償もなく戻ることはできないと答えました。

 

 色々被申見候得共、京田舎マテヘ被失面目候間、其色目モ無之、御帰寺者成間敷(『承応鬩牆記』)

 

 准秀上人はここでは面目を失ったから戻らないといっています。この面目を失ったということも門下を離れようとしたことの理由の一つです。

 

(熊野恒陽記)

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