【二百二十一】承応の鬩牆 その三十 板倉重宗の策略ではとの疑い

2020.05.29

   西本願寺は承応三年(一六五四)八月十八日、江戸幕府の寺社奉行に准秀上人の非を訴えた口上書を提出しています。西本願寺の訴えはすぐには取り上げられず、そのまま放置されていましたが、十一月二十九日になって、ようやく京都所司代の板倉重宗から、このことに関わる知らせが西本願寺へともたらされました。重宗がもたらした知らせとは、幕府の老中から、准秀上人のことを訴えるのであれば、良如上人自身が江戸に来て訴訟すべきなので、そのための準備をし、待機していてほしいということを伝えられた、というものでした。重宗はさらに、この三、四日のうちに出立することになるので、そのつもりでいるようにということも伝えられたといいました。江戸の幕府での訴訟となると、訴えられた准秀上人も江戸にいなくてはならないということになります。重宗は天満の准秀上人にも同様の内容のことを伝えました。

 

   重宗の知らせを聞いて、西本願寺ではお供の者の手配や必要な物資の買い物をすすめました。こうして準備を調えた上で、重宗を介して伝えられる江戸への出立の命令を待っていました。しかし、その肝心の命令がありませんでした。西本願寺関係者は今日か、今日かと命令を待ちましたが、命令が伝えられることはなく、そのうちに日は過ぎ、十二月十七日には命令を伝えることになっている重宗その人が京都から自身が領する摂津国島下郡山田へと下向してしまいます。年末、年始を領地で迎えるための下向です。これに先だって、重宗は十二月六日に所司代の職を辞しています。所司代の職を辞したとはいえ、後任の所司代を補佐するというかたちをとり、重宗は以後も強い力をのこします。摂津への下向に際し、重宗は今年も残りの日は少なくなっているので、年内に江戸に出立するという命令はないであろうということを西本願寺に伝えました。​

 

   先々、各、上下悦申候(『承応鬩牆記』)

 

   西本願寺関係者はそれを聞き、上も下も、皆、悦んだといいます。年末に京都を離れることがないということとともに、いつ命令が伝えられるのかの目処が立たないなか、とりあえずしばらくは命令を待たなくてよいとの安心感から関係者は悦んだのです。

 

   命令のないまま年は暮れていきましたが、命令は明けて承応四年(一六五五)の一月にもありませんでした。二月二十二日となり、板倉重宗の後任として京都所司代となった牧野親成が京都に上ってきました。西本願寺関係者は、この親成の上洛にあたって親成から老中の江戸への出立の命令が伝えられるものと思っていました。しかし、この時も命令はありませんでした。

 

   この親成の上洛からすぐの二月二十四日、板倉重宗、山城国の淀藩の藩主である永井尚政、尚政の弟で山城国の長岡藩の藩主である永井直清たちは新任の所司代である牧野親成を交え、西本願寺と興正寺の争いについて話し合っています。この話し合いののち、永井直清が直ちに興正寺と西本願寺を訪れています。直清は興正寺では准秀上人に天満から上洛するように伝え、西本願寺では良如上人との面談をしました。准秀上人はこれをうけ、二月二十六日に京都に戻っています。三月三日、永井直清は改めて、西本願寺、興正寺を訪れ、良如上人、准秀上人に和解するように説得にあたりましたが、その際も良如上人が和解案を受け入れることはありませんでした。板倉重宗、永井直清たちによるこの調停は幕府が指示したものというより、板倉重宗たちが独自に進めたものとみられます。幕府ではなく、重宗が争いの解決をはかろうとしているのです。こうしたこともあって、西本願寺の関係者たちは幕府の老中からの江戸への出立の命令はもうないのではないかと思うようになっていきました。

 

   二月下旬頃迄ハ、江戸御下向候事、可申来カト、上下共、聞耳ヲ立居申候得共、次第ニ無沙汰成申候故、彌例ノ周防殿御謀計ト、江戸御下向ノ事ハ、ハヤ心安存居候キ(『承応鬩牆記』)

 

   二月下旬までは、江戸への下向の命令があるのではないかと聞き耳を立てて注意を払っていたが、命令がないことから、この良如上人が江戸で訴訟をするようにとの老中からの話も周防殿の謀略からなされたものと考えるようになり、江戸への下向はもうないものとして、皆、安心するようになったとあります。周防殿とは重宗のことです。すべては重宗の策略なのだと思うようになったというのです。しかし、この老中からの江戸で訴訟をするようにとの話は重宗の策略からなされたものではありませんでした。

 

   (熊野恒陽   記)

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