【二百二十二】承応の鬩牆 その三十一 江戸への出立

2020.06.26

   承応三年(一六五四)十一月二十九日に板倉重宗から幕府の老中より准秀上人のことを訴えるなら良如上人自身が江戸に来て訴訟すべきだとの伝えがあったとの知らせを受けて以来、西本願寺の関係者は重宗を介して伝えられる老中よりの江戸への出立の命令を待ちました。しかし、命令のないまま日は過ぎていき、重宗の知らせから三箇月が経った承応四年(一六五五)の二月下旬ころには、西本願寺の関係者たちは老中よりの江戸で訴訟するようにとの話そのものが重宗の策略からなされたものだと思うようになっていきました。

 

   承応四年は三月に改元され、明暦元年となります。その明暦元年(一六五五)の四月八日、重宗から良如上人に書状が届きます。良如上人が重宗に贈答品を届けたことに対する礼状です。書状には礼の言葉が述べられるとともに、内密のことだとして、江戸に下向する準備をするようにといったことが書き添えられていました。これを不思議に思ったのは西本願寺の関係者たちです。​

 

   皆々、不審ニ存候キ(『承応鬩牆記』)

 

   皆、不審に思ったとあります。江戸への下向の話は策略からなされたもので、実際にはないことなのだと考えていたため、逆に不審に思ったのです。

 

   その後、四月十九日となって、良如上人に江戸に来て訴訟をするように命じた文書が西本願寺に届けられます。文書には板倉重宗と重宗の後任の京都所司代である牧野親成の連名の署名がありました。老中の意向を伝える正式な文書です。文書は重宗、親成の使者によって届けられました。使者は近日中に江戸へ下向するようにとも伝えました。

 

   各、驚アキレ申候(『承応鬩牆記』)

 

   人びとは驚き、呆れたとあります。江戸への下向の話が本当のことなのか、半信半疑であったところ、正式な文書が届いたため呆然としたのでした。

 

   西本願寺に文書を届けた使者はこの後、興正寺を訪れ、興正寺にも同様の内容のことを伝えました。

 

   老中からの正式な命令をうけ、良如上人は四月二十五日、江戸に向け京都を出立します。この時の江戸への下向に際し、お供として良如上人に従ったのは、いつもとは違って、若い家臣ばかりでした。

 

   御供衆、何レモ若衆計ニテ、此度ノ御下向ハ常ニ替リタル事ニ候、江戸ニテノ御首尾モ如何ト、各、気遣申候(『承応鬩牆記』)

 

   普段とは異なり、お供はいずれも若い者ばかりだったと記されています。続けて、こうした若い者ばかりなので、これから江戸で進行する事態が上手く進むかどうか、皆、心配したとも記されています。若い者ばかりであったことから、頼りなく思ったのです。良如上人には年配の家臣もいましたが、それらの家臣は蟄居中であったり、ちょうど隠居したりしたために、こうして若い家臣たちだけが従うことになりました。

 

   良如上人が江戸に向け京都を出立した四月二十五日には、准秀上人も江戸に向け出立しています。准秀上人は天満の地から江戸に向け出立しました。四月二十五日の出立に先立ち、准秀上人は四月二十日に、一旦、天満を出て京都を訪れています。老中からの江戸への下向の命令をうけ、京都に在住する武家や公家の人たちに下向前の挨拶に赴いたのです。

 

   興正寺殿ハ四月二十日ニ当地へ御上リ候テ、周防殿、日向殿、其外公家衆ナドヘ、所々御出候テ、其晩又天満ヘ御下向(『承応鬩牆記』)​

 

   周防殿とは板倉重宗、日向殿とは良如上人と准秀上人との争いの調停にあたった山城国の長岡藩の藩主である永井直清のことです。この両名に加え、公家の人たちの所に挨拶に赴いたのです。准秀上人はその日のうちに京都から天満へと戻りました。

 

   四月二十五日の准秀上人の天満から江戸への出立に際しては、総勢で七十人あまりの人びとがお供として准秀上人に従いました。

 

   天満御立候テ、伏見ニ御泊ノ由也、御供乗物四丁上下七十人余ト也(『承応鬩牆記』)​

 

    乗物とは駕籠のことで、駕籠が四挺と、お供の者がすべてで七十人あまりであったと書かれています。摂津国の天満から江戸に向かったため、この日は山城国の伏見での宿泊ということになりました。同じ日に京都から江戸に向かった良如上人の方は近江国の石部に宿泊しています。

 

   この後、旅は続き、准秀上人は五月五日に、良如上人は五月六日に江戸に到着します。

 

   (熊野恒陽   記)

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