【二百二十九】承応の鬩牆 その三十八 准秀上人の処分案

2021.01.27

   井伊直孝は明暦元年(一六五五)の七月十五日の夕方、松平直政とともに准秀上人のもとを訪れました。准秀上人の処分をどうするかの交渉のため准秀上人のもとを訪れたのです。直孝が准秀上人と対面するのはこの時が初めてでした。初めての対面ということで、直孝はこの来訪に先だって、どのようなかたちで准秀上人と会うのかということについて、松平直政や石谷貞清たちと意見を交換していました。准秀上人に直孝の屋敷に来てもらうのか、直孝が准秀上人のもとに行くのかといったことを相談したのです。その結果、直孝が准秀上人のもとを訪れるというかたちをとったのでした。准秀上人のもとに出向くというのは、准秀上人に対して敬意を表わしているということになります。

 

   直孝の訪れたのは准秀上人の江戸での宿所ですが、この宿所は日本橋の近くの石町(こくちょう)にありました。石町は、ここに米穀商が集まっていたことから、米の量を表わす単位である石にちなんで、石町との名がついたのだといわれています。いまも東京都中央区には日本橋本石町の地名がのこっています。​

 

   この十五日の対面で、直孝は准秀上人に自身が考えていた准秀上人の処分案を示しています。直孝の示した処分案は、大きく三つの条項からなっていました。一つ目は、学寮は取り壊されるのであるから、以後、学寮についてとやかくいわないというもので、二つ目は、准秀上人は越後国に逼塞し、准秀上人の妻子は天満興正寺を閉門として、その天満興正寺で過ごすというもの、三つ目は、准秀上人が門下に下した本尊や親鸞聖人の絵像などを取り返して、直孝の側に提出する、というものです。この処分案を直孝から示された准秀上人は、処分案に同意することなく、拒否しました。准秀上人は松平直政に、直孝殿がわざわざ意見を示されるのであればそれに従うし、今後も直孝殿のいう通りにする、と書いた口上書を提出しており、その口上書は対面の前日の十四日に直政から直孝のもとへと届けられていました。直孝は准秀上人は自身が用意した処分案に同意するであろうと思って、准秀上人のもとを訪れ、処分案を示したのです。しかし、その予想に反し、准秀上人は処分案の受け入れを拒んだのでした。

 

   直孝の処分案の受け入れを拒んだ准秀上人は、翌十六日、松平直政の屋敷を訪ねています。准秀上人は直政と面談をしましたが、この直政との面談で、准秀上人が示した対応は、前日、准秀上人が直孝に示した対応とは全く違ったものでした。准秀上人は直政に、処分案を受け入れると語ったのです。准秀上人は一転し、処分案の受け入れを決断したのでした。准秀上人が十五日の直孝との対面で処分案を受け入れなかったのは、いくら直孝のいうことに従うというつもりであったとしても、越後国に逼塞するという処分案を示され、遠く越後で日々を過ごすということが現実のものとなったことから、さすがに動揺して、処分案を拒んだということなのだと思います。それが、一晩を過ごしたことで、受け入れられるものとなったのだということのようです。准秀上人が口上書に書いた、直孝殿のいうことに従うというのは、准秀上人があくまで本心から思っていたことなのだと思われます。

 

   准秀上人が屋敷に訪れてきたことと、処分案に同意したということは、ただちに直政から直孝へと報告されました。報告を受けた直孝は、直政に書状で、処分案に同意したことは喜ばしいことであるが、それはまだ口頭で告げられただけのことであるので、同意したことが間違いのないことであることを示す准秀上人の一筆が欲しいということを伝えました。さらに直孝は書状に加え、前日、准秀上人に示した処分案を書いた覚書も直政のもとへと届けました。この処分案の覚書は、自分はこのような処分に服しますというふうに、准秀上人の側が自発的に書いたような体裁で書かれていました。そして、直政に対し、准秀上人にこれをそのまま写して提出してもらうか、それがいやなら、もとの文書に署名だけを加えて提出してもらうようにと依頼しました。直孝が行なっているのは良如上人と准秀上人の争いの調停であり、上から処罰を下すということではありません。処罰についても、准秀上人が自らの意思で罪に服するというかたちにするため、処罰案の覚書もこうした体裁となっているのです。

 

   直孝の意向を知った直政は、直孝とさらに連絡を取り合ったあと、結局、准秀上人と一緒に直孝の屋敷に行きました。そして、准秀上人は署名を加えた自筆の処分案の覚書を直孝に提出したのです。

 

   (熊野恒陽   記)

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