【二百三十一】承応の鬩牆 その四十 処分の決定

2021.03.22

 准秀上人の処分案は良如上人の意向をうけ、内容が変更されます。准秀上人は井伊直孝に変更された処分案に同意するように求められましたが、准秀上人はそれを拒否しました。しかし、これは何があっても強硬に拒否するというものではありませんでした。松平直政による説得などもあり、結局、准秀上人は変更された処分案を受け入れることになりました。明暦元年(一六五五)七月二十日、准秀上人は自身の処分の内容を記した覚書を直孝に提出します。変更後の覚書も、変更前のものと同じく三つの条項からなっています。

 

 その一つ目は、学寮は取り壊されるのであるから、以後、学寮についてとやかくいわないというものです。

 

 学寮之儀、門跡江御内証御異見被成、御破候上者、最早此段ニ、何角申分無之候事(『浄土真宗異義相論』)

 

 この条項については、前のままで変更はありません。

 

 二つ目は、准秀上人は越後国に逼塞し、准秀上人の妻子は天満興正寺に隠棲させるというものです。

 

 任御異見、拙僧越後国高田領之内、今町之在家江逼塞之上者、法事一切ニ執行申間鋪候、如御指図、妻子之儀、大坂天満之寺ニ隠家之躰ニ指置、閉門ニ申付、門下参詣不致候様ニ可有之候、並諸国所々ニ有之通ひ寺、弥以閉門、法事等迄執行沙汰有之間敷事   

 附 京都七条拙僧寺、任御異見閉門ニ仕、留守居計指置可申候、勿論家来屋敷之分も不残閉門ニ可仕也

 

 まず、直孝殿の意見に従い、私は越後国の高田藩の領内の今町にある在家に逼塞し、そこでは法事などは、一切、行なわないとあり、次いで、お指図のように、妻子は天満の興正寺を閉門とし、そこに隠棲させ、天満の興正寺には門下の者たちも参詣させないようにするとあって、さらに、諸国の興正寺の御坊も閉門とし、そこでも法事などは行なわないとあります。そして、補足として、直孝殿の意見に任せ、京都の興正寺も閉門として、留守番だけを置き、もちろん家来の屋敷も残らず閉門とするとあります。

 

 この条項は前のものと大きく異なっています。前の処分案では、准秀上人は長岡の正覚寺に逼塞するとなっていましたが、ここでは高田藩領の今町の在家に逼塞するとなっています。それとともに法事を行なわないということもあらたに加わったものです。次いで記される、妻子は天満興正寺を閉門として、そこに隠棲し、門下の者たちも参詣させないというのは前と同じですが、それに続いて記される、各地の御坊を閉門とし、法事などは行なわないというのは前には無かったもので、あらたに加えられたものです。補足の京都の興正寺と家来の屋敷も閉門とするというのは、京都興正寺を閉門とするというのは前と同じですが、家来の屋敷も閉門とするというはあらたに加わったものです。

 

 三つ目は、准秀上人が下した本尊や親鸞聖人の絵像などを取り返し、直孝の側に提出するというものです。

 

 京都立退申以後、於大坂天満、本寺執行申儀、無調法故、門下江申付候品々、悉、自今以後、其旨と不存候様、可申聞候、墨付遣し候分者、書記進覧候間、板倉周防守殿江御相談、防州江御取返し、其上、貴殿江御預り置可被下候事

 

 京都を退去後、天満で興正寺が一派の本寺であるかのように振る舞ったのは誤りであったので、門下に下付した品などについても、今後はこれを本寺である興正寺から下付されたものと思わないようにいい聞かせるとあり、続けて、門下に下付した絵像などの記録を提出するので、板倉重宗殿に命じて絵像などを回収してもらい、直孝殿はそれらを重宗殿から預かってくださるようにとあります。板倉重宗は前の京都所司代で、京都で良如上人と准秀上人の争いの調停を進めた人です。准秀上人は本尊や親鸞聖人の絵像を下しただけではなく、座配を定め、それを許したりもしていました。座配とは座の順序のことで、上位の者が上に座るというように、座る場所はそのままその人の階位を表わします。座配を定めてそれを許すとは、特定の位を許したということです。絵像などを回収するとともに、そうした階位の許可をも取り消すということになります。

 

 この条項は、前のままで変更はありません。

 

 これら三つの条項は准秀上人の処分として、良如上人と准秀上人の双方が了承したものです。争う双方が同意したことにより、准秀上人の処分の内容はこの覚書に記されるものに決定したのです。

 

 (熊野恒陽 記)

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