【二百三十三】承応の鬩牆 その四十二 金光寺教恩の死

2021.05.23

 准秀上人の処分の内容が決定したのち、良如上人は月感についても処罰するように井伊直孝に求めていきました。良如上人は明暦元年(一六五五)の七月二十二日、家臣に命じて作成させた月感のこれまでの振る舞いの概要を記した覚書とともに、月感の処罰を求める書状を直孝に差し出しています。

 

 只今者、延寿寺儀、枝之様ニ候へとも、一宗之法敵、重々之徒者ニ候間、此書付之上、能々御吟味候而、可然様、偏頼入計候(『浄土真宗異義相論』)

 

 良如上人は書状で、いまとなっては月感は枝のようなものではあるが、月感は一宗の法敵であり、この上ない悪者であるので、覚書に書かれた月感の振る舞いをみてもらって、処罰を検討するように頼みたいと述べています。枝のようなものとあるのは、月感と西吟の争いは准秀上人と良如上人の争いとなり、准秀上人と良如上人の争いの方が根幹となって、月感と西吟の争いは枝葉のようなものとなってしまったということです。枝葉のようなものとなったとはいえ、准秀上人と良如上人の争いのもとになったのは月感の一連の行動です。加えて、月感は争いが准秀上人と良如上人の争いとなってからも、良如上人と西本願寺を罵倒していました。良如上人にとって月感の振る舞いは、到底、許すことのできないものでした。良如上人は激しい怒りを覚えながら、月感の処罰の検討を求めたのです。

 

 直孝に処罰を求める一方、良如上人はその後、町奉行と交渉した上で、月感が宿所としていた家の家主に依頼して月感の身柄を預かってもらっています。逃亡などを防ぐためです。自身に処罰が下ることを知った月感は、准秀上人が越後に逼塞するのであれば、自分も処罰として一緒に越後に逼塞したいと主張しました。

 

 准秀上人の処分の内容が決定し、月感の処罰を求めたことで、良如上人にとっては、あとは准秀上人の実際の処分と月感の処罰の内容がどうなるのかを待つだけとなりました。京都の西本願寺の学寮も七月十九日から建物の解体が始まっています。井伊直孝による良如上人と准秀上人の争いの調停も、細かな問題をのこすばかりで、重要な問題はほぼかたがつきました。

 

 七月六日ヨリ二十二日迄ニ、掃部殿、以上七度御坊ヘ御出被成・・・興正寺殿ヘモ、掃部殿、一両度御出被成、御使者モ度々ノ由候、掃部頭殿、抛万事、如此御肝煎候ニ付、七月二十二日、先大方相済候(『承応鬩牆記』)

 

 掃部殿は井伊直孝のことです。直孝は七月五日の夜、老中からの良如上人と准秀上人の争いの調停の依頼を受諾しました。その受諾の翌日である七月六日から二十二日まで、直孝は七度、西本願寺の江戸の御坊を訪れ、准秀上人の宿所にも、一、二度訪れたとあり、直孝が万事をなげうって世話をしてくれたので、争いの調停は二十二日には、大方、成し遂げられたとあります。誰の目にも問題は解決したようにみえたのです。

 

 そうした状況にあった七月二十六日、御堂衆として良如上人に仕えていた金光寺が自死します。

 

 金光寺、七月二十六日、江戸ニテ相果被申候・・・当年三十九歳(『承応鬩牆記』)

 

 腹を切ったのだと伝えられています。この金光寺は法名を教恩といいました。西本願寺が興正寺のことを幕府に訴えるにあたって、実務を担っていたのがこの教恩でした。金光寺は西本願寺の御堂衆の寺ですが、本末関係では興正寺の末寺です。教恩は興正寺の門下だったのです。御堂衆としての金光寺の立場は複雑です。本来、金光寺は津村御坊の役僧の寺のなかの筆頭の寺です。津村御堂は西本願寺の大坂の御坊です。

 

 役僧七箇寺・・・於中金光寺[興門下]累世本座、入本山御堂衆之数、常為上首(『大谷本願寺通紀』)

 

 津村御坊には七箇寺の役僧の寺があり、そのなかで金光寺が、代々、役僧の上首であって、本山の御堂衆としても扱われていると書かれています。金光寺は津村御坊の役僧の筆頭のまま、本山西本願寺の御堂衆だったのです。金光寺そのものも津村御坊の門前にありました。この津村の金光寺は滋賀県長浜市十里町にある大谷派金光寺から分かれた寺のようです。戦国時代、近江国北東の湖北地方には十の有力な真宗の寺があり、十箇寺衆と称されていました。金光寺も十箇寺のうちの一つです。十里の金光寺も興正寺の末寺でした。

 

 教恩は興正寺の門下にかかわらず、准秀上人の処分を求める役目を負わされたことから死んでいったのです。自らの役目を果たしたのち、准秀上人に背いたことを詫びるために死を選んだのでした。

 

 (熊野恒陽 記)

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