【二百三十九】承応の鬩牆 その四十八 興正寺門下の反発

2021.12.01

  准秀上人が越後国へと赴き、月感が出雲国へと赴いたあと、良如上人は京都へと戻りました。良如上人が江戸を出たのは明暦元年(一六五五)の九月六日で、九月十七日に京都へと戻っています。四月二十五日に江戸へ向け京都を出立してから、およそ五箇月が経っています。京都に到着した良如上人はともかく安堵を覚えたはずです。良如上人は、こののち興正寺との争いで混乱した派内の状況を安定したものにする必要がありますが、それについても、准秀上人は京都におらず、越後に逼塞しているということから、今後は自分が強く指導することで、派内は安定に向かうであろうと考えていたのではないかと思われます。しかし、現実にはそうはなりませんでした。

 

   世上ノ取沙汰ニハ、御門跡様、江戸ヨリ御上洛候ハ、興正寺殿御下ノ坊主等モ、ヒタヽヽト直参ノ御礼申、又、当地ノ興正寺殿御侍分、家屋敷ナトヲモ、何卒、御下知可有ト、京田舎迄存居申候ヘ共、御上洛ノ後、曾其沙汰モ無之(『承応鬩牆記』)

 

   世間の評判では、良如上人が江戸から京都に戻ったなら、興正寺門下の坊主たちも次々に西本願寺の直参坊主になることを望んで西本願寺に押しかけ、興正寺に仕える侍たちも家、屋敷の所有権の保証を求めて西本願寺に集まってくるであろうといわれていたのに、実際に良如上人が京都に戻っても、そのようなことにはならなかったとあります。興正寺の門下の良如上人ならびに西本願寺に対する反発は強かったのです。

 

 この年の十一月、西本願寺では報恩講が執り行なわれましたが、例年に比べて参詣者は少なく、摂津国の興正寺門徒たちも参詣しなかったと記録されています。

 

   当年ハ在々逼迫申候付テ、参詣少ク、津国興正寺殿下ナドモ、参詣不申候(『承応鬩牆記』)

 

   興正寺門下の西本願寺への反発は京都に限らず、各地でみられ、各地で興正寺方と西本願寺方との対立がみられるようになりました。

 

   近国、遠国共ニ、其所々々ニテ、御本寺方ト興正寺殿方ト、諍居申体ニ候(『承応鬩牆記』)

 

 近国、遠国で西本願寺方と興正寺方が争ったとあります。双方の対立はこの後もより深まっていきます。

 

   於当所、日来、朝暮参詣申タル人々、互ニ隔心ニ成、一言ノ儀モ聊爾ニ不被申候様ニ成申候ニ付、町内隣家共ニ隔呉越心地仕候(『承応鬩牆記』)

 

 西本願寺方、興正寺方の対立から、日頃、朝暮に西本願寺に参詣しているような人びとのなかにあっても、互いに心を許すようなことはなくなり、一言の言葉さえ、安易に口にすることはなくなったとあり、続いて、町内や隣の家の人びとも、打ち解けることはなく、呉の国と越の国の人びとのように互いに敵対心をもつようになったとあります。西本願寺の派内は安定に向かうどころか、ますます混乱を深めていったのでした。

 

   興正寺門徒はこうして西本願寺に対する抵抗を示しましたが、これは単に興正寺門徒が西本願寺に楯突いているだけのものだとは思われません。そもそもの西吟の教学理解を正しいものとする西本願寺の姿勢や、准秀上人や興正寺および興正寺門徒に対する西本願寺の態度、さらには良如上人の処分に対しての准秀上人の処分のあり方、そうしたものに納得のいかないものを感じていたからこそ、興正寺門徒は激しく反発したのです。月感が蟄居したのに対し、西吟は何の処分も受けていません。これだけからすると、西吟の教学理解が正しいということになります。良如上人と准秀上人が争っていた承応三年(一六五四)七月十三日、良如上人が江戸から上洛した御堂衆の金剛寺に、江戸では西吟と月感の争いはどう捉えられているのかと尋ねたところ、金剛寺は、江戸では西吟の理解は邪法として捉えられており、江戸の坊主たちもこのままでは西本願寺の教えは滅びると思っていると答えています(『承応鬩牆記』)。興正寺の門下だけではなく、西本願寺の門下の坊主であっても、西吟の理解は誤りだとする坊主は大勢いたのです。学寮を取り壊したとはいえ、西吟は処分されず、その教えは正しい教えとして扱われています。そして、西吟を正しいとした良如上人は京都へと戻り、西吟を批判した准秀上人は結果として越後に逼塞することになったのでした。興正寺門徒でなくとも、ここに疑問を感じた者は多かったはずです。

 

 明暦元年の十月、興正寺の末寺である東坊の了海は西本願寺の門下を離れて、東本願寺の門下となりました。了海は月感の弟子でした。了海には西本願寺の門下であることが耐えられなかったのです。

 

 (熊野恒陽記)

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