【二百四十八】承応の鬩牆 その五十七 良尊上人と良如上人の和解

2022.08.28

   良尊上人は万治元年(一六五八)十一月二十六日の晩、天満から京都の興正寺に戻ってきました。ちょうど西本願寺の報恩講が執り行われている最中ということになります。良尊上人は翌二十七日に西本願寺に出向き、良如上人と対面します。

 

   御逮夜過ニ、五味備州、野々山丹州、御出候テ、則御所ニテ、新門様御引合、御中ナヲリ也、初夜前ニ両人ハ御帰候(『承応鬩牆記』)

 

   五味備前は五味豊直、野々山丹州は野々山兼綱のことです。この二人には井伊直孝が良尊上人の後見人を務めるように前もって依頼をしていました。報恩講の逮夜の勤行が終わったあと、その五味豊直と野々山兼綱の立ち会いのもと、西本願寺の御所で良尊上人と良如上人が対面し、和解したとあります。准秀上人は天満に戻った段階で隠居し、この時には良尊上人が興正寺の住持です。准秀上人に先だって、住持の良尊上人がまず良如上人と和解したのです。

 

 こののちの二十七日の夜の八時ころ、西本願寺では重臣たちが報恩講に出仕するため西本願寺に来ていた一家衆の坊主たちを集め、今夜、興正寺に行ってお祝いのことばを述べるようにとの指示を与えています。

 

 三十人程、先御所ヘ参、御悦申、ソレヨリ直ニ、興門様ヘ参申候、則広間ニテ各ヘ御対面候テ、罷帰候(『承応鬩牆記』)

 

 一家衆の坊主たちは、まず西本願寺の御所で良如上人にお祝いのことばを述べました。それからそのまま興正寺に来て、広間で一人、一人が良尊上人にお祝いのことばを述べました。良如上人と和解したことから、良尊上人は翌二十八日の西本願寺の報恩講の勤行に出仕しています。

 

   二十八日朝勤ヨリ、新門様御本寺御堂ヘ御出仕也、両堂勤行ニ御逢被成候(『承応鬩牆記』)

 

 両堂での晨朝の勤行に出仕したとあります。この後、日中の勤行がつとめられますが、二十八日の日中ということで、いわゆる満日中ということになります。

 

   御日中へ御出仕、御門跡様同前、香法服也、式相念仏[バントウブシ]則新門様也、同行道トハ御門跡ノ次也、御斎ヘモ御出仕候也(『承応鬩牆記』)

 

 良尊上人は良如上人と同様に香法服を着したとあります。香法服とは香色の法服ということです。香色とはやや黄色がかった明るい赤色で、丁子や香木で染めた色です。香色の衣は勝手に着用することはできないもので、本願寺では蓮如上人の息男の実如上人が朝廷より香衣の着用を許されてから着用するようになりました。法服は本願寺が門跡寺院となったあとから着用するようになった法衣です。袍服とも書かれます。上半身の袍と、下半身の裳とに分かれた仕立てとなっています。本願寺は門跡寺院になったあとから法服とともに七条袈裟を用いるようになります。法服に七条袈裟を着けるのが正式な装束ということになります。ここでいわれているのも、良尊上人も良如上人と同様に香色の法服、七条袈裟を着用していたということです。

 

 式相念仏とあるのは式間念仏のことです。報恩講の満日中では報恩講式が拝読されますが、式間念仏は報恩講式の拝読の際に唱えられる念仏のことです。報恩講式は三段からなりますが、各段の拝読後、念仏、それに和讃が二首、唱えられます。その念仏と和讃の句頭を良尊上人が発声したと書かれています。この式間念仏の箇所には割書があって、その念仏、和讃は坂東節で唱えられたとあります。西本願寺はこののちしばらく経ってから、坂東節を用いることを止めますが、この時にはまだ坂東節が用いられていました。

 

 報恩講式の拝読後の行道の際には、良尊上人は良如上人の後ろに続いて行道をしたとあります。良尊上人は日中の勤行後の齋にも出仕したとも書かれています。

 

 良尊上人は良如上人に次いで行道したとありますが、西本願寺全体としても良尊上人は良如上人に次ぐ位置にいました。良如上人の後継者となるのは寂如上人ですが、寂如上人は慶安四年(一六五一)の生まれで、この時には八歳です。まだ得度もしていませんでした。良尊上人が良如上人に次ぐ地位にいたのです。良尊上人が興正寺を継ぐ前には准秀上人が良如上人に次ぐ地位にいました。良如上人と准秀上人の争いとは、そうした立場にある人物同士の争いであったのです。

 

 まだ准秀上人とは和解はしていませんが、良如上人は良尊上人とは和解へと至りました。良如上人は井伊直孝をはじめ関係者にそれを知らせるため、十二月五日、家臣を江戸へと遣わしています。

 

 (熊野恒陽記)

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