【二百五十七】西吟の死 西吟への批判

2023.05.29

   良尊上人は万治二年(一六五九)の六月に興正寺の修復への協力を求めるご消息を書き、八月には高松御坊の再建への協力を求めたご消息を書いています。そのころから住持としての本格的な活動が始まったということになります。万治二年の二月、准秀上人と良如上人が和解します。この両者の和解を契機として良尊上人は住持としての本格的な活動を始めたのでした。

 

 この後、万治三年(一六六〇)の十月、准秀上人は亡くなります。良尊上人は住持として興正寺全体の復興につとめていましたが、その最中に准秀上人は亡くなったのでした。それから二年後の寛文二年(一六六二)の九月七日には良如上人が亡くなります。五十四歳でした。良如上人は一年以上前から病気で体調を崩していましたが、寛文二年の七月ころからは、一層、病状が悪化し、そのまま亡くなりました。亡くなった良如上人の院号は教興院ですが、この院号は良如上人自身が付けたものなのだといわれています。教えを興す、とは教学を興隆するとの意味のようです。教学の興隆は良如上人が願ったことで、そのために学寮を建立したのです。その学寮も准秀上人との争いによって取り壊すことになります。教学の興隆との願いを思い通りには叶えることができないまま亡くなったのです。

 

 寛文三年(一六六三)の七月十五日には、学寮の能化であった西吟が五十九歳で死亡します。

 

   両寺法論出来ヨリ十一年目也、其以前逝去候ハ、如此ノ法論ハ出来申間敷物ヲト、世俗ノ風聞也(『承応鬩牆記』)

 

   西吟が死亡したのは、月感と西吟との法論から十一年目のことであるとあって、続けて、もし西吟が十一年前よりももっと前に亡くなっていたのなら、そもそもこのような法論も起こらなかったのだと世間の人びとは語っていたとあります。西本願寺などは月感と西吟、そして、准秀上人と良如上人との争いは、月感と准秀上人との側に非があるといったようなこといっていますが、ここに記されているように、当時はむしろ西吟、良如上人の側に非があるとされていたのです。

 

   当時における西吟への批判はこれだけではありません。明暦三年(一六五七)、真宗高田派の本山である専修寺の第十四世の住持、堯秀上人は『御書』を版行します。『御書』はご消息を集成した本です。高田派ではご消息の一通、一通を御書といいますが、ご消息を集成した本をも御書といっています。堯秀上人の版行した『御書』は四巻からなり、そこに親鸞聖人ならびに堯秀上人を含めた専修寺の歴世の住持が書いた御書、計、四十八通が収められています。『御書』は勤行の際、拝読されるものです。この『御書』のうちの堯秀上人が書いた御書に、真宗の教えを汲む者に唯心の浄土、自性の弥陀ということにもとづいて教えを理解する者がいるとして、それを批判しているものがあります。

 

   聖人ノ勧化ニヨリテ、報土往生ヲネガフモノハ、自力他力ヲヨク分別シテ、安心ヲ決定スベキナリ。ソノユヘハ、サカシキ人ノ中ニ、ヤヽモスレバ心地修行ニ心ヲミダシ、他力安心ヲウシナヘル族アリ。是則、道俗ニヨラズ、専修念仏ノ行者ニハ大ナルアヤマリナルベシ。サレバコソ聖人ハ、沈自性唯心、貶浄土真証ト、フカクナゲキタマフナリ。此文ノコヽロハ、人々、自己ノ本性ヲ沙汰シ、唯心ノ浄土、自性ノ弥陀トコヽロエテ、サテ極楽ニ往生シ、悟ヲ開カントネガフモノヲ見テハ、方便浅近ノ法門ナリトカロシム

 

   真宗の教えを汲む者は、自力他力を分別して、安心を決定すべきだとあり、それはなぜかというと、利口ぶっている者の中には、自己の心を観察し、その心を磨いて、さとりへと至ろうとする心地修行ということに思いを囚われて、他力の安心を失う者がいるからだと述べられています。そして、そうしたことは専修念仏の行者としては大きな誤りなのだと述べています。次いで、『教行証文類』のうちの信文類の序の一文が引かれています。さらに文章は続きますが、そこでいわれているのは、親鸞聖人は人びとが自性唯心に沈んで、浄土の真証を貶めているとの状況を深く嘆いているが、今の時代にあっても自己の本性を浄土自性の弥陀と心得て、極楽に往生を願うとの教えを浅薄なものと捉える者がいるということです。

 

   この堯秀上人の御書は明暦三年の『御書』の版行にあたり、そこに収録するために書いたものとみられます。明暦三年なら、ちょうど月感と西吟が争い、それが広く世に知られるようになった時ということになります。月感は西吟の教えの理解を、自性唯心ということにもとづくものだとして批判しました。月感は西吟を批判するのに、一心自性の理観、自性一心という用語をも用いています。御書にいう、極楽への往生を願うことを浅薄なものとし、自己の本性を浄土自性の弥陀と心得ている者とは、まさしく西吟のことなのです。

 

   聖道門仏教の考えにもとづく西吟の理解は、容易には受け入れがたいものであったのです。

 

   (熊野恒陽 記)

PAGETOP