【二百六十一】高松御坊の再建 その三 常光寺の伝え

2023.09.26

   高松御坊の御堂は寛文二年(一六六二)に完成したものとみられます。讃岐国の三木郡氷上村の常光寺は明治二年(一八六九)に書かれた由緒書で、御堂の完成を契機に常光寺と阿波国美馬郡郡里村の安楽寺が高松御坊の御堂に関わる諸事を月替わりで取り仕切るようになったのだと述べていました。常光寺の由緒書はこの明治二年に書かれたものとは異なるものもあります。興正寺には『寛政五年讃岐国出役記』と題された記録が蔵されています。寛政五年(一七九三)、興正寺の家臣が讃岐に赴いて、讃岐の末寺の由緒を調べ、それを記録したものです。この記録に常光寺の由緒書が載せられています。興正寺の家臣が常光寺に由緒書を提出させ、それを写しているのです。この時、常光寺は由緒書を二種類、提出しており、記録には内容が異なった二種類の由緒書が載せられています。そのうちの一つの由緒書は明治二年のものと内容が一致するところが多く、明治二年の由緒書はこれをもとに書かれたものと思われます。もう一つの由緒書には、幾分、それらとは違ったことも書かれています。

 

   その、幾分、内容の異なった由緒書によると、常光寺は興正寺と佛光寺が分かれる以前のもとの佛光寺の時代から讃岐の御坊を守護していたとされています。常光寺を開いた浄泉は、応安年中(一三六八―七五)、佛光寺の了明尼公の命を受け、和泉国から讃岐国へと移り、讃岐の野原の地にあった野原御坊に居住して、讃岐、阿波を教化するとともに、その野原御坊を守護していたのだというのです。

 

   応安年中、了明様蒙仰、讃州野原御坊江罷下、阿讃両国之門徒化益仕候様被仰付、教化仕、御坊守護仕候内、三木郡氷上村ニおよひて一宇草創仕候

 

   常光寺の開基の浄泉は御坊を守護しているうちに氷上村の地をみいだし、そこに常光寺を建てたのだと書かれています。御坊を守護していた者が開いたのが常光寺だとされているのです。ここで常光寺がいおうとしているのは、高松御坊はその前身の坊の時代から常光寺が一貫して守護しているのだということです。江戸時代、常光寺は高松御坊の御堂の諸事を取り仕切っていましたが、そうしたことによる誇りがこのような主張を生み出していったのだといえます。由緒書にはさらに御坊と常光寺との関わりが述べられていきます。

 

   其後、天正年中、御坊高松へ御引移之節、御普請等見繕被仰付、出精仕候ニ付、御成就之上、慶長年中歟、為御褒美、准尊上人より御堂出仕之節、座配御免被成下、其上、御色衣拝領被仰付候

 

   高松御坊が現在地に移される際、常光寺は准尊上人から御坊の移築工事の諸事を取り仕切るように命じられたので、それに励んだところ、御坊の完成後、褒美として、御堂への出仕の時、上座に着くことを許されるとともに、色衣を拝領し、その着用を許されたとあります。座る場所はそのままその人の階位を表わします。明治二年の由緒書には常光寺は阿波の安楽寺とともに高松御坊配下の興正寺の末寺の頭だとありましたが、この記述からするなら、常光寺が明確に高松御坊配下の他の興正寺の末寺より上の位についたのは御坊が現在地に移った慶長十九年(一六一四)のこととなります。ここには天正年中(一五七三―九二)に御坊が高松に移ったとありますが、これは単純な誤りです。

 

   明治二年の由緒書によると、常光寺は寛文二年の御坊の再建の際も、安楽寺とともに御堂の再建工事の諸事を取り仕切り、それによって御堂の諸事を取り仕切るようになったとされていましたが、こちらの由緒書では、それ以前の慶長十九年の御坊の移転の際の移築工事においても、移築工事の諸事を取り仕切り、上位の位と色衣を許されたとされています。現実に高松御坊の配下の興正寺の末寺は、本末関係でいえば、大半が常光寺か安楽寺の末寺であり、御坊が移築なり、再建されるとなると、必然的に常光寺と安楽寺に協力を求めなくてはなりません。そのため常光寺と安楽寺は他の寺とは違った扱いを受けることになるのです。

 

   御坊との関わりはなおも続けて述べられていきます。

 

   龍雲院様御代、圓超御門跡様より御坊御堂勤番仕候ニ付、氷上村より高松ハ遠方之儀故、御堂御門前御坊町ニおよひて、表口四間之地所拝領仕、息休所ニ被仰付、只今ニ所持仕候

 

   松平頼重が高松藩の藩主の時、圓超、すなわち良尊上人から、氷上村から高松は遠いので、御坊のある御坊町に、休息所の用地とするため間口四間の土地を拝領し、いまも所持しているというのです。

 

   (熊野恒陽記)

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