【二百六十八】寂岷上人 その二 わずか十八歳で亡くなる

2024.04.25

 寂岷上人は、貞享三年(一六八六)二月十一日、十五歳の時に得度します。これによって寂岷上人は興正寺の住持になります。父である良尊上人が亡くなってから、寂岷上人が住持になるまでの六年の間、興正寺には住持がいなかったことになります。六年を経て、やっと寂岷上人が住持になったのです。

 

 寂岷上人の幼名は為丸です。興正寺は良尊上人が亡くなったあと、西本願寺に対し、為丸の得度を願い出ましたが、得度はすぐには許されませんでした。得度は許されなかったものの、この間、西本願寺は為丸と関わりをもたなかったということではありません。為丸は西本願寺に赴き、蹴鞠をしたり、勤行の指南を受けたりしていました。西本願寺は為丸に勤行の指南をしつつも、得度は許さなかったのです。

 

 良尊上人が亡くなったあとの為丸を支えたのは良尊上人の弟である圓尊師です。

 

 叔父深信院圓尊、旦夕侍衛シテ守護シ玉フ(『山科興正寺付法略系譜』)

 

 圓尊師は朝から晩までつねに側にいて、為丸を守っていたとあります。深信院というのは圓尊師の没後の院号です。圓尊師は良尊上人より五歳、年下です。良尊上人が亡くなった時、圓尊師は四十五歳でした。圓尊師はこののち為丸が得度し、寂岷上人となってからも寂岷上人を支え続けました。

 

 得度後の貞享三年四月七日、寂岷上人は朝廷から法眼に叙せられます。翌貞享四年(一六八七)三月五日には、寂岷上人は朝廷から大僧都に任ぜられました。西本願寺門下のこととしては、寂岷上人は得度の翌年の貞享四年の一月二十七日、巡讃を許されています。

 

 四年正月二十七日、許寂岷唱巡讃

 

 江戸時代の西本願寺の学僧、玄智の著わした『本願寺通紀』にそれが記録されています。玄智はこの記事に続け、巡讃についての説明も記しています。

 

 上階衆巡次唱和讃首句、此言巡讃

 

 西本願寺の御影堂、阿弥陀堂の内陣には本願寺住持の一族の寺の住持などしか出仕できませんでしたが、そうした位の高い僧たちが、法要の際、順番に和讃の一句目を唱えていくことを巡讃というのだと書いてあります。興正寺の住持は西本願寺の門下にあっては、西本願の住持に次ぐ立場にあり、歴代の興正寺住持は、皆、巡讃をつとめてきましたが、寂岷上人は十六歳の時から巡讃をつとめるようになったのです。

 

 巡讃を許された貞享四年の四月二十一日、寂岷上人は結婚します。

 

 讃州高松城主松平讃岐守頼重朝臣ノ女ヲ娶ル。今師干時十六歳也(『山科興正寺付法略系譜』)

 

 寂岷上人の結婚の相手は興正寺と関わりの深い松平頼重の娘、万姫です。この時、万姫は十九歳でした。ここには高松城主とありますが、頼重は水戸徳川家から迎えた養子の頼常に、延宝元年(一六七三)、家督を譲っており、正確にいうなら、頼重は前高松城主ということになります。寂岷上人は鷹司兼煕の猶子になっていますが、鷹司兼煕の妻となっているのも松平頼重の娘の長姫です。興正寺と高松藩の松平家、鷹司家は強く結びついているのです。

 

 結婚から一年後の元禄元年(一六八八)五月二日、松平頼重は興正寺を訪れています。興正寺で頼重は寂岷上人と圓尊師、それに圓尊師の息男で寂岷上人の連枝となっていた藤丸と対面しています。頼重は寂岷上人と娘の万姫との末永い幸いを願ったことでしょうが、現実は頼重の願いの通りにはなりませんでした。頼重が興正寺を訪れてから二箇月後の七月十五日、万姫は亡くなります。

 

 七月十五日 恵勝院殿御往生(『華園略暦』)

 

 万姫の法名は祐尊、院号は恵勝院です。万姫は寂岷上人と結婚してから一年後、二十歳で亡くなりました。

 

 しかし、不幸はこれだけではありませんでした。万姫が亡くなってから半年後の元禄二年(一六八九)一月四日、寂岷上人本人が亡くなるのです。

 

 元禄元戊辰歳ヨリ疾ニ染ム。而元禄二己巳歳正月四日寂ス。化年十八歳、諡能信院殿(『山科興正寺付法略系譜』)

 

 寂岷上人は亡くなる一年前の元禄元年から病に冒されていました。自身が病に苦しむ中、妻である万姫の死を迎えたのです。寂岷上人はわずか十八歳でなくなります。あまりに短い一生でした。当然、いろいろな希望を抱いていたことと思いますが、それらを果たすこともなく、亡くなっていったのです。

 

 (熊野恒陽 記)

 

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