【二百六十九】寂永上人 幕府の命令で興正寺の住持に

2024.05.26

 寂岷上人は、元禄二年(一六八九)一月四日、十八歳で亡くなります。寂岷上人の妻、万姫もその半年前に二十歳で亡くなっています。二人の間には子供はいませんでした。寂岷上人が病弱であったことから、寂岷上人の父、良尊上人は、生前、自身の弟の圓尊師の子の藤丸を養子として迎えていました。良尊上人は病弱な寂岷上人に何かがあった際の跡継ぎにと考え、藤丸を養子として迎えたのでした。現に寂岷上人が亡くなった以上、藤丸が次の興正寺の住持になることになります。しかし、藤丸はすぐには住持の職に就くことはできませんでした。西本願寺が藤丸を住持にすることを妨げる行動をとってきたのです。西本願寺は寂如上人の甥を興正寺の住持にしようとしてきたのでした。

 

 興正寺には『本末之式無之証拠書物写』と題された記録が伝えられています。江戸時代中期のもので、西本願寺と興正寺の関係は普通にいう本末関係とは違っているということを主張することを目的にまとめられたものです。この記録の中に西本願寺が寂如上人の甥を興正寺の住持にしようとしたという記述があります。

 

 元禄二己巳年正月四日、当山十九世寂岷上人、十八歳ニ而遷化被致、実子無之候処、其節、後住之義、西本願寺より新規ニ被取扱、西本願寺舎弟播州本徳寺子息甥を興正寺之後住ニ被致度旨、押而、公儀江被相願候

 

 寂如上人には寂圓師という弟がおり、その寂圓師は播磨国飾西郡亀山の本徳寺の住持をしていました。播磨国飾西郡亀山は現在の兵庫県姫路市亀山の地に相当します。寂岷上人が亡くなったあと、寂岷上人に実子がいなかったことから、西本願寺はその寂圓師の子を興正寺の住持にするように、無理矢理に幕府に願い出たと書いてあります。押而は、無理にとか、強引にという意味の副詞です。西本願寺は強引に西本願寺の住持の一族を興正寺の住持に据え、興正寺を支配しようとしたのです。興正寺の住持を誰にするかは興正寺が決めることであり、西本願寺が決めることではありません。そうであるにもかかわらず、西本願寺は勝手に興正寺の住持を誰にするかを決めようとしたのです。興正寺を侮っているのであり、あまりにも傲慢な態度です。この西本願寺の幕府への願い出に対し、興正寺も藤丸を次の住持とするように幕府に願い出ました。

 

 家来共ハ、寂岷上人之従弟藤丸後住ニ被仰付被下候様、御所司代内藤大和守殿江相願候処、同年七月、依公儀興正寺後住、家来共願之通、藤丸江家督住持職被仰付候、依之、藤丸、法号寂永上人

 

 興正寺に仕える家来たちは、藤丸を次の興正寺の住持にするように京都所司代の内藤大和守に願い出たとあります。内藤大和守とは内藤重頼のことです。重頼は安房国の勝山藩の藩主の子として生まれ、幕府の要職を歴任し、この時、京都所司代をつとめていました。そして、その後の元禄二年の七月、江戸幕府は興正寺の家来たちの申し出を認め、藤丸に住持の職に就くように仰せつけたとあります。藤丸は翌元禄三年(一六九〇)の四月に得度し、法名、寂永と号しました。

 

 西本願寺の申し出は幕府によって拒絶され、興正寺の申し出が認められました。幕府の役人も西本願寺の願い出を筋違いなものと思ったために拒絶したのです。

 

 この西本願寺が勝手に興正寺の住持を決めようとしたということは、『本末之式無之証拠書物写』以外の別の書にも述べられています。

 

 今家ノ法灯ハ他家ノ指揮ヲ受クへキ非ス、官府ノ命ニ従フヘシト云テ、是ヲ官府ニ訴ルニ、官府今師ニ命シテ法灯タラシム

 

 興正寺の歴代の住持の略伝をまとめた江戸時代の『山科興正寺付法略系譜』の寂永上人の項の一部です。興正寺の住持をどうするかは他の寺から指図されるものではないので、幕府に訴えて決めてもらうということになり、寂永上人が幕府の命で住持となったとあります。ここにいう他家とは西本願寺のことです。

 

 このほか、興正寺の第二十七世の住持とされる本寂上人が作成した興正寺の住持家の系図である『華恩略系図』でも、寂永上人の名の所に寂永上人は幕府の命によって住持となったということが注記されています。

 

 寂岷早世ニヨリ、依台命興正寺住職

 

 台命とは貴人による命令のことで、この場合は幕府による命令のことです。幕府の命で住持となったのは、興正寺では寂永上人だけです。ここから本寂上人などは、幕府の命で住持になったということを、むしろ誇らしいこととして捉えているのです。

 

 (熊野恒陽 記)

 

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