【二百八十九】仏護寺十二坊 その十一 御領分追放

NEW2026.01.25

 仏護寺十二坊の住持たちは、広島藩の寺社奉行に十二坊は仏護寺の塔頭であるというのが藩の捉え方であるので、それに従うようにと説得されたことから、十二坊は仏護寺の塔頭ではないとの書付を記して、その書付を藩の郡奉行のもとに届けました。書付を受け取った郡奉行は、書付をしばらく預かるといいました。

 

 十二坊すくに郡御奉行・・・へ持参するに、これまたとゝめおくへきことわりなけれと、非礼非義をかへりミさるものともなれハ、此うへ右往左往せんもいかゝしく、右書付しハらくとゝめおくへきよしいへり(『知新集』)

 

 本来なら、郡奉行には書付を預かる責任などありませんが、十二坊の住持たちは礼儀をわきまえず、道理に反する者たちであるので、自分たちが慌てふためくのもどうかと思い、郡奉行は書付を預かったのでした。

 

 これにより、十二坊が書付を記したことは藩の知るところとなります。十二月二十一日、寺社奉行、それに藩の目付は仏護寺に十二坊のうちの八つの寺の住持を呼び寄せます。呼ばれたのは、円竜寺、報専坊、徳応寺、光円寺、善正寺、元成寺、品窮寺、光禅寺の住持たちです。藩の方針に従わず、その上、藩に対し、無礼な振る舞いをしたというので、藩はこの八人を領内からの追放刑に処することにしたのです。

 

 非礼之仕方、御国主を不憚一党仕候段、不届ニ思召候、依之、御領分追放被仰付候(『知新集』)

 

 八人は党を組み、藩主を疎かにするような振る舞いをしたので、御領分からの追放を仰せつけるとあります。追放の申し渡しは一人づつ行なわれました。八人は、自分たちは以前から述べてきたことを述べ続けているまでのことだといい、おとなしく藩の命令に従うことにしました。八人は自分の寺に戻ると、そのままそれぞれの寺から出て行ったのです。

 

 仏護寺に呼び寄せられたのは八人だけですが、当日は十二坊のうちの、正善坊、真行寺、超専寺、それに十二坊ではない、浄専寺の住持も仏護寺に詰めかけていました。当日、藩はこの四人に追放の申し渡しをするつもりはありませんでしたが、八人に申し渡しがあったことから、自分たちは同じ仲間だといって、追放の申し渡しがないのにもかかわらず、八人とともにそれぞれの寺を出ていきました。

 

 此四人にハ今日申わたす事なけれハ、まつ帰寺すへし、かさねて申つける事もあるへきよし申きかすに、いつれも一同のものなりとて追放の八人とおなしく立さりぬ(『知新集』)

 

 このほか十二坊の光福寺も追放の申し渡しはありませんでしたが、十二人が寺を出たことから、十二人とともに寺を出ることにしました。この光福寺の住持は、ほかの十二坊の住持たちとは違った考えをもっており、本心では同調してはいませんでしたが、勢いにつられて寺を出たのです。

 

 この僧ハ外坊中とハこゝろえかハり、一味同心にハあらさりしを、惣坊中の強勢に引れけるときこえし(『知新集』)

 

 寺を出た十三人のうち、浄専寺を除く十二人が十二坊の住持です。この十二箇寺以外では、蓮光寺と正伝寺が十二坊の寺です。 この二つの寺は広島の寺町には寺はなく、寺は別の場所に建っていました。蓮光寺があったのは沼田郡の長束村、正伝寺があったのは沼田郡の相田村です。別の場所にあるのですから、この二箇寺を仏護寺の境内にある寺だということはできません。仏護寺の塔頭でないことは明らかです。こうしたことから、この二つの寺は、ほかの十二坊の寺ほどは強く藩や仏護寺に反発するということはありませんでした。この二箇寺の住持は寺を出ることはなく、そのまま寺にとどまりました。

 

 領内からの追放刑に処せられた八人は、住持だけではなく、その妻子も寺から出ることが求められました。それぞれの寺の侍僧は寺に残るように命じられましたが、いずれの寺でも、妻子と侍僧はともに寺を出ています。八人に倣ったほかの人たちの寺でも、妻子、侍僧たちは住持とともに寺を出ました。

 

 追放八人の妻子ハ追院申つけ、八人の侍僧ともハ其まゝまかりあるへきよし申つけけるに、これも立さりぬ、追放申つけさる五人の妻子、其侍僧も立去ぬ(『知新集』)

 

 八人が追放となり、五人がそれとともに寺を出たということは、ただちに広島藩から、京都の西本願寺、それに興正寺へと伝えられました。

 

 (熊野恒陽 記)

 

 

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