【二百九十】仏護寺十二坊 その十二 十二坊は京都に
NEW2026.02.24
仏護寺十二坊のうちの八つの寺の住持は、元禄十六年(一七〇三)十二月二十一日、広島藩より領内からの追放を申し渡され、そのまま寺を出ました。この八人とともに、ほかの十二坊の四つの寺の住持、それに十二坊ではない、浄専寺の住持も寺を出ます。この十三人以外にも、それぞれの妻子や侍僧も寺を出ました。
寺を出た十二坊の住持たちが向かったのは京都です。広島藩と十二坊との対立は、藩が十二坊の住持たちに寺内宗旨判形帖に判形を据えることを許さなかったことに始まりますが、その後の藩と十二坊との争いのなか、十二坊の側に立って藩との交渉にあたったのは興正寺です。十二坊の住持たちが頼りとするのは興正寺しかありませんでした。住持たちは興正寺を頼って、興正寺のある京都へと向かったのでした。
京都に到着後、十二坊の住持たちはそのまま京都に滞在することになります。興正寺が住持たちの滞在の世話をしました。住持たちの京都での滞在の期間はこののち七箇月を越えるものとなりました。
十二坊の住持たちが京都に滞在していた元禄十七年(一七〇四)は、三月十三日に改元され、宝永元年となります。その宝永元年となって、興正寺は十二坊の住持たちが広島へと戻れるようにするため、広島藩との交渉を始めます。十二坊をめぐる藩との交渉は、一貫して興正寺が交渉していて、西本願寺は何の交渉もしていません。十二坊は本末関係では仏護寺の末寺ですが、仏護寺は興正寺の末寺頭の一箇寺である東坊の末寺です。興正寺の門下のことについては、西本願寺も強く介入することはできなかったのです。
宝永元年甲申、興正寺御門跡より正恩寺を江戸へつかハされ、こなた御屋敷へまゐり・・・十二坊帰寺の御断仰入られける(『知新集』)
宝永元年、興正寺は広島藩の藩主、浅野綱長のいる広島藩の江戸の藩邸に正恩寺を派遣して、十二坊の住持たちの広島への還住が叶えられるように申し入れたとあります。この申し入れに対しては、広島藩は正恩寺に改めてこちらから興正寺に返答すると伝え、正恩寺には、一旦、京都に帰るようにと伝えました。
其後、吉田彦右衛門を御使として興正寺へさしのほされ、十二坊帰寺の事、だん〲の御侘によりゆるしつかハさるゝよし仰入らる(『知新集』)
その後、吉田彦右衛門が興正寺へ遣わされて、興正寺が十二坊の住持たちのことを詫びるので、住持たちの還住を許すことにしたということが伝えられました。
住持たちが寺に戻ることを許したということは、江戸の藩邸から国元の広島にも知らされましたが、仏護寺の住持にそれを伝えると、仏護寺の住持は十二坊が仏護寺の境内にある塔頭であるということはこれまでの通りであるのか、と尋ねたといいます。これまでの通りだと答えると、そうであるなら藩の方針に従うと、仏護寺の住持は納得したと伝えられます。
境地なとの事ハ、前々にかハることあるへからすよし答るに、仏護寺、国命をかしこまりぬ(『知新集』)
仏護寺の住持が関心のあるのは、藩が十二坊を仏護寺の塔頭として扱うかどうかということだけだったのです。仏護寺の住持は、十二坊の住持たちが寺を出たことから、十二坊の各寺の後任の住持を決め、それを興正寺に届けるということもしていました。これは後任の住持が寺に入る前に、本来の十二坊の住持が寺に戻ったため、後任の者が十二坊の寺に入るということにはなりませんでした。仏護寺の住持は、十二坊は仏護寺の塔頭なのであるから、その塔頭の住持は自分が決めるのだと思っていたのです。
十二坊の住持たち、それに浄専寺の住持が広島に戻ったのは宝永元年の八月五日のことです。翌六日、住持たちは、それぞれの寺に入りました。
十二坊のうち光福寺一人は京に居らす、御門跡より帰寺の事仰せわたされもなきよし、正恩寺いへり、此僧事ハはしめより一味同心のものにあらさるゆゑ、御侘の列を除かるゝ(『知新集』)
十二坊の住持たちはそれぞれ寺に戻りましたが、光福寺の住持だけは寺に戻らず、そのまま京都にとどまっていました。光福寺の住持は最初からほかの十二坊の住持たちとは同調しておらず、寺を出たのもほかの住持たちの勢いにつられて出ただけでした。京都でも協調することはなかったのです。そのため興正寺の御門跡、すなわち寂永上人はほかの住持たちと一緒に広島に戻ることを許さなかったのです。
(北島恒陽 記)


