【二百九十一】仏護寺十二坊 その十三 騒動の一応の決着
NEW2026.03.25
広島藩から領内よりの追放を申し渡されて寺を出た仏護寺十二坊のうちの八つの寺の住持、追放を申しつけられていないのに寺を出た十二坊のうちの四つの寺の住持と、十二坊ではない浄専寺の住持の合計十三人のうちの十二人の住持は、宝永元年(一七〇四)八月五日、滞在していた京都から広島へと戻り、翌六日、それぞれの寺に入りました。住持たちが広島に戻る際には、興正寺の使僧として正恩寺が同行しました。
六日に寺に入った十二人の住持たちは、その日のうちに寺社奉行の屋敷へと向かいました。寺社奉行が住持たちを呼び出したのです。寺社奉行は住持たちに、広島藩の藩主、浅野綱長が住持たちの領内からの追放を許したということを正式に伝えるため住持たちを屋敷に呼び出したのでした。
十二坊、浄専寺、寺社御奉行宅へ呼出し、帰寺仰付られけるよし申わたす、口上にハ、いつれも帰寺の事、江戸に於て興御門跡御断により、御ゆるしなし下さる、ありかたくおほえ奉るへしといふ、此呼出しの時、正恩寺もまかりこしたきよし申、この申わたしを承りぬ(『知新集』)
寺社奉行は屋敷で十二坊の住持たちに、藩主が住持たちに寺に帰ることを仰せつけたということを述べるとともに、住持たちに口頭で、住持たちが寺に戻ることができたのは、興正寺門跡の寂永上人が江戸にいる藩主、浅野綱長のもとに使僧を遣わして、住持たちを許してほしいと申し入れたためであるので、寂永上人に感謝するようにということも述べました。寺社奉行の屋敷へは正恩寺も一緒に行くことを希望したので、寺社奉行はそれを了承し、正恩寺も追放を藩主が許したことを寺社奉行が住持たちに正式に伝えたことを確認したともあります。
この寺社奉行による十二坊の住持たちへの藩主が追放を許したということの正式な申し渡しをもって、住持たちは完全に自由の身となりました。興正寺の使僧として、広島藩と十二坊との間に入って、双方との交渉を続けた正恩寺もそれに立ち会い、住持たちが自由の身となることを確認したのでした。
仏護寺と十二坊との対立から、十二坊の住持たちの広島藩の領内からの追放へと発展した騒動は、これで一応は治まりました。しかし、これによって仏護寺と十二坊との対立関係が解消したわけではありません。仏護寺と十二坊は仏護寺の住持が十二坊を仏護寺の塔頭として扱ったことから始まったものです。仏護寺の住持は広島藩が十二坊を仏護寺の塔頭と捉えたことから、十二坊を塔頭として扱いました。対立の根本の原因であるこの十二坊を仏護寺の塔頭とする藩の捉え方に変更がなかったからです。広島藩はこののち一貫して十二坊を仏護寺の塔頭として扱いました。そのため仏護寺と十二坊は以後も対立し続けることになります。
十二坊を塔頭とする一方で、藩は仏護寺を優遇しました。元禄十六年(一七〇三)八月、仏護寺の住持は藩に対し、十二坊の住持たちが自分のことを悪くいうために人びとの帰依も薄くなり、寺を維持することができなくなったので、自分は寺から出て、寺を藩に献上するということを申し出ます。この申し出に対し、藩は仏護寺の住持に寺から出ることをとどめた上で、仏護寺に寺の維持のためにと米、二百俵を下しています。これは臨時の処置でしたが、宝永三年(一七〇六)三月、藩は、以後、毎年、仏護寺に米、二百俵を下すということを決め、仏護寺にそれを知らせています。
仏護寺不勝手付、寺相続之儀、日光御門跡より殿様江御頼被成候旨被仰入候、格別之儀故、為寺相続米二百俵宛被下候(『知新集』)
日光御門跡から藩主に対し、仏護寺は経済的に困っているため援助するように依頼があったので、以後、米、二百俵を下すことにするとあります。日光御門跡とは下野国河内郡の日光山にある天台宗の輪王寺の門跡のことです。いま日光山は東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれていますが、この二社一寺は、本来、一体のもので、その全体を治めていたのが輪王寺門跡でした。輪王寺門跡は将軍家の徳川家から格別の扱いを受けていました。この時の輪王寺門跡は後西天皇の皇子である公弁法親王です。ここには公弁法親王が藩主に仏護寺を援助するように依頼したとありますが、これは仏護寺に米を下すことを正当化するために、あえてそうしたことにしているのだと思われます。広島藩と公弁法親王とは以前から関わりがありました。仏護寺は明らかに優遇されているのです。
(北島恒陽 記)


