【二百九十二】仏護寺十二坊 その十四 「正恩寺懐中覚書」

NEW2026.04.26

 仏護寺と仏護寺十二坊とが対立し、十二坊の住持たちの広島藩の領内からの追放へと発展した騒動は、宝永元年(一七〇四)八月六日、広島藩の寺社奉行が十二坊の住持たちに藩主が住持たちの追放を許したということを正式に申し渡したことで、かたちの上では解決します。そして、その翌年の宝永二年(一七〇五)九月、仏護寺と十二坊との間の騒動の様子をまとめた記録が著されます。『宝永二年九月 十二坊始終覚書』と題された記録です。この記録そのものはいまは伝わっていないようですが、広島城下の地誌である『知新集』には、この記録をさらにまとめ直した記録が載せられています。この『知新集』の記録をみることで仏護寺と十二坊との騒動の様子を知ることができます。『知新集』は江戸時代の後期に編纂されたものです。

 

 『知新集』には広島城下にある真宗寺院の沿革や寺伝、それに各寺院に蔵せられた文書なども載せられていますが、仏護寺と十二坊との騒動に関係するものとしては、興正寺の使僧として騒動に関わった正恩寺が記した覚書が載せられています。この覚書は『知新集』のなかでは「正恩寺懐中覚書」と題されています。「正恩寺懐中覚書」が記されたのは元禄十六年(一七〇三)の十二月のことです。十二坊の住持たちが領内からの追放となり、京都へ向かったのは元禄十六年の十二月二十一日です。「正恩寺懐中覚書」が十二月の何日に記されたのかは書かれていませんが、正恩寺は住持たちが追放となったことを一つの区切りとみて、「正恩寺懐中覚書」を記したということは疑いありません。

 

 「正恩寺懐中覚書」では十二坊は仏護寺の塔頭ではないということが述べられています。

 

 十二坊儀仏護寺寺内僧ニ而無御座條々

 

 「正恩寺懐中覚書」の冒頭の表題の部分にはこう書かれています。十二坊が仏護寺の寺内僧、つまりは塔頭ではない数々の根拠というほどの意味で、これに続いて数々の根拠が箇条書きで示されています。

 

 正恩寺は十二坊が仏護寺の塔頭ではないということを確信していたのです。塔頭ではないのにもかかわらず、十二坊は藩からは仏護寺の塔頭として扱われます。十二坊の住持たちはそのため藩と対立し、結果として領内から追放されることになったのです。正恩寺はそこに不条理を感じるとともに、追放となった住持たちを憐れに思い、住持たちに心を寄せていたのでした。

 

 正恩寺が十二坊は仏護寺の塔頭ではないことの根拠として最初に示しているのは、仏護寺と十二坊は、本来、別々の場所にあったということです。

 

 十二坊寺地ハ往古ハ在々散在、安芸、沼田、高田、高宮、山県、加茂、佐伯七郡に其跡、百姓屋敷あるひハ田地ニ罷成、諸人口碑に残、於今申伝候事

 

 十二坊の寺地は昔は散在していて、国内の安芸、沼田などの七郡にその跡が残っているとあり、その跡はいまは百姓の屋敷や田畑になっているが、人びとはそこが寺地であったということを口伝えで伝えていると書かれています。塔頭は、まず本坊にあたる寺があり、それに付随して建てられるものです。十二坊はもともと別の場所にあったのだから、十二坊は仏護寺の塔頭であるはずがないと述べられているのです。

 

 『知新集』には江戸時代の後期に書かれた仏護寺をはじめ十二坊の各寺の由緒書が載せられていますが、それをみても十二坊の各寺のもとの所在地はそれぞれ違っています。さらには各寺が真宗の寺となる以前の宗派として伝えられるものもそれぞれ異なっています。十二坊の一つである報専坊はもとは安北郡勝木村にあり、真言宗であったと伝えていますし、超専寺はもとは佐東郡東村にあり、時宗であったと伝えています。そして、善正寺などはもとは佐伯郡上深川村にあり、真言宗で、その旧地はいまものこっていて、そこには現に薬師如来像を安置した堂があるし、その後の移転地には先祖の墓といわれるものもあるとされています。

 

 往古ハ真言宗にて佐伯郡上深川村にあり、高見山慶蔵院宝成寺といひき、開基ハ詳ならねと旧地今に存して高見薬師の堂顕然たり、同寺住僧俊宏代、寛正年中当宗に改宗し、文明年中同郡利松村鳴渓といふ処に移住し、ここにも古墳ひとつ残りて、今に当寺先祖の墓と申伝ふ

 

 仏護寺がもともとあったのは佐東郡の金山の山麓の龍原の地であり、もとは天台宗であったとされています。安芸国の郡名は時代によって変わるため、所伝の郡名に違いがみられますが、仏護寺と十二坊は間違いなくそれぞれ別の場所にあったのです。

 

 (北島恒陽 記)

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