【二百九十三】仏護寺十二坊 その十五 十二坊の寺地は十二坊のもの
NEW2026.05.25
正恩寺は元禄十六年(一七〇三)十二月に「正恩寺懐中覚書」を記しています。「正恩寺懐中覚書」には仏護寺十二坊が仏護寺の塔頭ではないことを示す根拠が列挙されています。「正恩寺懐中覚書」では十二坊が塔頭ではないことの根拠として、最初に仏護寺と十二坊は、本来、別々の場所にあったということが挙げられていますが、このほかに根拠として挙げられるのは、十二坊の寺地の領有がどうなっているのかということです。十二坊が仏護寺の塔頭であるのなら、十二坊の建つ寺地は仏護寺の境内地ということになります。
仏護寺と十二坊は、慶長十四年(一六〇九)、広島城主の福島正則によって、小河内の付近の地からいまの寺町の地へと移されます。この時、寺地の寄進状などの文書が発給されていたのなら、寺地の領有がどうなっているのかは明白に知られますが、寺町への移転の際には文書が発給さることはなかったようです。『知新集』には江戸時代の後期に書かれた仏護寺と十二坊と対立をめぐる「仏護寺十二坊浄専寺の論」と題された一文が載せられていますが、そこには、仏護寺や十二坊には寺地の領有がどうなっているのかを示す、花押や印判が据えられた寄進状などの正式な文書はないと記されています。
仏護寺にも十二坊にも判物印璽も残らされは
こうしたなか、「正恩寺懐中覚書」では寺地の領有のあり方を示すものとして、寛文十年(一六七〇)に十二坊から江戸幕府に提出された寺地についての書付が取り上げられており、その書付が十二坊が仏護寺の塔頭ではないことの根拠とされています。
善正寺屋敷之事・・・毛利殿当地御移城之時、広瀬へ仏護寺と一同ニ屋敷被下、其後太夫殿御入国已後、六十二年已前ニ当地屋敷かへ被仰付候、毛利殿已来、諸役御赦免之屋敷ニ而御座候
十二坊の一つである善正寺は、毛利輝元が広島城を築城した際、輝元から仏護寺とほかの十二坊の寺とともに広瀬の地に寺地を賜り、その後、いまから六十二年前、太夫殿、すなわち福島正則が広島城主となった際に、現在の寺町の地にあらためて寺地を賜り、仏護寺とほかの十二坊とともに移転したのであり、善正寺の寺地は毛利輝元の支配下であった時代から、夫役、地子の課せられない地だとあります。広瀬というのは小河内のすぐ近くの地の名です。いまの寺町に移転する前の仏護寺と十二坊の正確な所在地ははっきりとせず、小河内といわれたり、広瀬や、揖斐松原の北といわれたりします。いずれもすぐ近くの地です。この書付によるなら、善正寺の寺地は善正寺のものということになります。まさに塔頭ではないことの根拠となるものです。広島藩が十二坊を仏護寺の塔頭と扱うようになるのは元禄十四年(一七〇一)のことです。藩が十二坊を塔頭だとしたことをうけ、仏護寺も十二坊を塔頭だといい始めます。この書付が記されたのはそれより三十一年前のことです。しかも、この書付は善正寺から上寺の仏護寺を介し、藩、さらには幕府へと提出されています。元禄十四年より以前には、藩も仏護寺も十二坊を塔頭だとはみていなかったのです。
十二坊のなかには、寺町に寺地を領有するとともに、寺そのものは別の地に建っているという寺もあります。品窮寺と光善寺です。藩はこの二つの寺も仏護寺の塔頭だとしました。寺町の寺地を本来は仏護寺のものだとみるのなら、塔頭だといえなくもありませんが、当時、両寺の寺町の寺地は両寺のものとしかいえないような状況にありました。「正恩寺懐中覚書」では、それも十二坊が塔頭ではないことの根拠とされています。
可部品窮寺ハ於寺町御免地抱来候、依之地子等自分へ取申候、是以仏護寺境内ニ而無御座証拠之事
可部村の品窮寺は前から寺町に地子の課せられない土地を領有しているとあり、いまはその地を人に貸していることから、貸した人からの地子を品窮寺が受け取っているとあります。地子を受け取っているのですから、この寺地が品窮寺のものであることは明白です。
五日市光禅寺儀も於寺町御免地抱来候故、番人等付置、自分ニ支配仕候得とも、是又仏護寺境内ニ而無御座証拠之事
五日市村の光禅寺も前から寺町に地子の課せられない土地を領有しているので、用心のため番人を置いて自分の寺で管理しているとあります。
このほか、相田村の正伝寺にいたっては、寺町に寺が移るということすらありませんでした。それを塔頭だというのはさすがに無理な話です。
(北島恒陽 記)


