【二百九十四】仏護寺十二坊 その十六 仏護寺の寺伝

NEW2026.06.25

 仏護寺十二坊が仏護寺の塔頭でないことは明白ですが、仏護寺は十二坊の住持たちの広島藩の領内からの追放という騒動が解決した以後も、十二坊は仏護寺の塔頭だという主張を続けることになります。仏護寺が十二坊を塔頭だとしたのは広島藩が十二坊を仏護寺の塔頭だとしたことをうけてのことですが、その広島藩の十二坊を塔頭だとする捉え方に変更がなかったからです。広島藩は一貫して十二坊を仏護寺の塔頭として扱いました。

 

 仏護寺が十二坊を塔頭だと主張し続けたことにより、仏護寺の伝えてきた寺伝もそれに見合ったものに変わっていくことになります。『知新集』には、文政四年(一八二一)、仏護寺の第十五世の住持である本順によって書かれた仏護寺の寺伝が載せられています。広島藩が十二坊を仏護寺の塔頭として扱い出したのは元禄十四年(一七〇一)のことです。それ以後、仏護寺も十二坊を塔頭だといい出します。塔頭だといい出して百年以上経ったその文政四年に書かれた寺伝では、十二坊は仏護寺を開いた正信の十二人の弟子が住んでいた坊舎に始まるものだとされています。十二人の弟子の坊舎は仏護寺の門前にあり、左右に六坊づつ並んで建っていたのだとされます。そして、師である正信の住む仏護寺が本坊であるのに対し、十二坊は弟子の住む坊舎であり、塔頭だとされています。この寺伝に従えば、十二坊は仏護寺の開創以来の塔頭だということになります。この寺伝に書かれていることは、十二坊の各寺が伝える寺伝とは全く違っています。十二坊の各寺はそれぞれ別の場所にあったと伝えていますし、当然ながら、仏護寺の塔頭だったと伝える寺もありません。仏護寺の側が、十二坊を塔頭だとする主張に合致するように寺伝を改めていったのです。

 

 文政四年に書かれた寺伝によると、仏護寺を開いた正信は甲斐国の出身だとされます。正信は甲斐国の守護である武田氏の一族なのだといいます。

 

 当寺開基を正信といひ、甲斐国の産にして、藤原氏大職冠鎌足公の裔孫、武田の一類、原田家の息男、俗名を豊五郎政信と申せしか、幼きより弓馬の業をいとひ、名跡を家弟にゆつり、十七歳にして薙髪し、法名を正信とよひ、甲斐国の山中に庵をむすひ、みつから仏護庵と号し、一向に天台念仏を修し居ける

 

 正信の俗名は豊五郎政信だといいます。政信は武士の家に生まれたものの、武士としての生き方を厭い、弟に家を託し、十七歳で出家したとされます。以後は、正信との法名を名乗り、甲斐国の山中の庵で過ごしたとされています。正信は自らその庵を仏護庵と名付け、そこで天台宗の念仏を行じていたのだといいます。

 

 安芸国五郡の守護、佐東郡金山の城主武田治信の嫡子、刑部少輔義信、ゆゑありて一類甲斐の武田に寓居せられしか・・・もとより類縁なれハ、ことにちなミ深くかきりなく愛敬あり、この人、後安芸国にかへり、武田家相続あらんとする時、この正信を金山に誘ひ、しはらく彼城に留錫せし

 

 安芸国の分郡守護である金山の城主の武田治信の嫡子である義信は、故あって同族の甲斐国の武田家のもとに身を寄せます。甲斐国に来た義信は正信と会いますが、同族ということもあり、正信に親愛の情を抱くとともに、その人間性に好感をもつようになったとあります。のち義信は安芸国に帰り、家を継ぐことになりますが、その際、義信は正信を金山に来るように誘います。正信はそれに従い、金山城に身を寄せることになったのだといいます。金山は銀山とも書かれます。

 

 それからしばらく経った長禄三年(一四五九)、義信は正信のため一寺を建立しようとし、寺地に適した地を探します。そうして選ばれたのが、金山の麓にある龍原の地です。寺地を探していたある日、二羽の鶴が金山の山腹で舞うと、二羽の鶴は声を合わせて鳴いて、麓の龍原の地の岩に止まりました。翌日も同様のことがありました。これを見聞し、霊地であるに違いなということで龍原の地が選ばれました。

 

 龍原と申ハ、そこに龍の形に似たる名石有て、古より龍岩とよひ、古今霊異多きよし、其龍岩の在ところゆゑ龍原と唱へ来れり

 

 龍原との地名は、そこに龍に似た岩があり、それを龍岩といったことから、岩のある地を龍原と呼ぶようになったとあります。この龍原の地に仏護寺とその門前に左右に六坊づつの坊舎が建てられたというのです。

 

 仏護寺の寺伝はさらに続きます。

 

 (北島恒陽 記)

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