【二百九十五】仏護寺十二坊 その十七 龍原の十二坊

NEW2026.07.25

 仏護寺の第十五世の住持である本順が文政四年(一八二一)に書いた仏護寺の寺伝によると、仏護寺十二坊は仏護寺の開創以来の塔頭だとされています。仏護寺は長禄三年(一四五九)、金山の麓の龍原の地に建てられますが、その時、十二坊、ならびに上坊、すなわちのちの浄専寺も塔頭として一緒に建てられたのだといいます。

 

 本坊、即仏護寺にて、塔頭、今の十二坊、上坊なるか、そのかミはミな坊号にて、本坊の門前、左右に六坊ツヽ相ならひ、惣名十二坊と武田家より称せらる

 

 仏護寺は本坊であって、塔頭の十二坊は仏護寺の門前に左右に六坊づつ建っていたと書いてあります。この寺伝と別の伝えによれば、上坊は一坊だけ龍原の地より上部の山の上に建っていたために上坊と呼ばれたのだとされています。仏護寺の門前の左右の六坊づつは、左の六坊は甲斐六坊、右の六坊は地六坊と呼ばれたともされます。

 

 塔頭十二坊、本坊の門前、左右に六坊ツヽむかひ、左六坊を甲斐六坊とよひ、右六坊を地六坊とよふ、甲斐六坊といふは甲斐国より正信に従ひ来りし弟子に入院いたさせたるをいひ、地六坊は正信当国に来りて後、教をうけし弟子六人に入寺させたるをいふ

 

 甲斐六坊は仏護寺を開いた正信が甲斐国にいた時以来の弟子、六人を入寺させた坊舎であり、地六坊は正信が安芸国に来てから弟子となった者、六人を入寺させた坊舎であるとあります。十二坊の初代は皆、仏護寺を開いた正信の弟子であり、その弟子、十二人は正信によって、それぞれの坊舎に入寺したのだというのです。十二坊はまさに仏護寺の塔頭だということになります。

 

 仏護寺はこののち、正信の甥の円誓が継ぎます。正信は天台宗の念仏を行ずる人であり、円誓もまた天台宗の念仏を行じていました。したがって、十二坊も天台宗ということになります。それが、明応五年(一四九六)、異相の老翁に真宗に帰入することを勧められ、仏護寺と十二坊は真宗の寺となります。

 

 円誓のあとは超順が仏護寺を継ぎますが、この超順の代の時、仏護寺を支えてきた安芸国の武田氏が毛利元就によって滅ぼされます。天文十年(一五四一)のことです。武田氏の居城、金山城は落城し、これによって金山の麓の龍原にあった仏護寺と十二坊も堂舎を失います。そのため超順は安南郡の中山村に移ります。中山村には仏護寺を開いた正信が、一時、幽居していた屋敷がありました。十二坊の住持たちもそれぞれ縁のある地へと移ることになります。

 

 中山村なる開基正信の幽居のあと、ひとつの小屋敷ありけるにかくる、この地、今に当寺の通寺たり、されハ塔頭の面々もおもひおもひに縁を慕、こヽかしこに散在せり

 

 この後の天文二十一年(一五五二)、元就は超順が器量のある人物であるということを聞き及ぶと、超順を許すとともに、翌天文二十二年(一五五三)には超順に龍原の地に、再び、堂舎を建立するように命じます。

 

 同年の冬、本坊、塔頭まつかりに造営し、翌年の春、超順を帰住せしめ

 

 本坊である仏護寺だけではなく、塔頭もともに再建されたとあります。十二坊の坊舎も龍原の地に再建されたというのです。十二坊が仏護寺の塔頭として龍原の地にあったとは思われませんが、ここにいう武田氏の滅亡後、武田氏に代わって。毛利氏が仏護寺を保護していたことは事実と認められます。

 

 かくて天正十七年、毛利殿、広島開発し給ひ、文禄二年、龍原の仏護寺、並に塔頭を小河内と申ところへ引移し給ふ

 

 天正十七年(一五八九)、毛利元就の孫の輝元は広島の町を整備します。そして、文録二年(一五九三)、仏護寺と十二坊を広島の小河内の付近の地へと移します。ここでは龍原の地から仏護寺と十二坊は一緒に移ったことになっていますが、現実には十二坊は別々の場所から小河内の付近の地に移ったのです。この後、さらに仏護寺と十二坊はいまの寺町の地へと移ります。

 

 この寺伝でいわれていることは、十二坊は一貫して仏護寺の塔頭であったということです。実際には十二坊は仏護寺の塔頭ではありませんが、仏護寺は広島藩が十二坊を仏護寺の塔頭だとしたことをうけて、こうした寺伝を作り上げていったのです。

 

 (北島恒陽 記)

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