【二百九十六】仏護寺十二坊 その十八 毛利氏が十二坊を仏護寺の末寺にした
NEW2026.08.25
『知新集』には文政四年(一八二一)に書かれた仏護寺の寺伝が載せられ、そこでは仏護寺十二坊は仏護寺の創建以来の塔頭だとされていましたが、『知新集』にはこの仏護寺の寺伝に対する十二坊の側の意見を引用した文章も載せられています。仏護寺と十二坊の争いはひろく人びとの関心を引くものとなっており、そこから『知新集』には仏護寺と十二坊の争いを止めさせる方法を論じた文までもが収められています。仏護寺の寺伝に対する十二坊の側の意見は、その争いを止めさせる方法を論じた文に引かれています。
十二坊申伝にハ、おのおの古より一寺別山にて、先祖出所、自国他国ひとしからす、内六坊甲斐国より来れるといふ事も、内六坊当国にて随従せしといふ事もさらになく、もとより仏護寺弟子にも非れは、龍原の塔頭なりし事きヽも及ハす、宗旨もはしめハまちまちにて、改宗時代もおのおのちかひ、おほくハ仏護寺より古き寺なる
まず、十二坊側の申し伝えでは、十二坊というのは最初から十二坊として集まっていたのではなく、古くはそれぞれ別々に建っていた寺であり、先祖の出身地も安芸国の者もいれば、他国の者もおり、ばらばらだとされているということが述べられます。次いで、仏護寺の寺伝では、十二坊のうち六坊は仏護寺を開いた正信が甲斐国にいた時の弟子、六人の坊舎で、六坊は正信が安芸国に移ってからの弟子、六人の坊舎だとされているが、決してそのようなことはなく、十二坊の先祖はもともと仏護寺住持の弟子でもないのであって、十二坊が龍原の地にあり、仏護寺の塔頭であったいうことなど聞いたこともない、とあります。そして、仏護寺は、仏護寺と十二坊は、当初、天台宗であったといっているが、十二坊の当初の宗旨は、それぞれまちまちであって、宗派を真宗に改めたのもおのおの違った時代のことであり、十二坊のうちの多くは仏護寺より古い寺だと述べられています。
では、仏護寺より古い寺である十二坊が、なぜ仏護寺の末寺になっているのかというと、それは安芸国を支配した毛利氏が十二坊を仏護寺の末寺にしたからだと述べられています。
おほくハ仏護寺より古き寺なるを、毛利殿の時、いつれも仏護寺末寺となり、又広瀬にてそれそれ寺地を賜り
仏護寺は創建以来、武田氏が保護してきましたが、その武田氏は毛利元就によって滅ぼされます。武田氏滅亡後に仏護寺を支えたのは毛利氏で、元就は天文二十二年(一五五三)、仏護寺の第三世の住持である超順に仏護寺を再興するように命じます。これによって仏護寺は龍原の地に再建されます。その後の天正十七年(一五八九)、仏護寺は元就の孫である毛利輝元によって、龍原から広島の小河内の地に移されます。ここでは広瀬とされていますが、広瀬も小河内も隣接した地の地名で同じ地のことを指しています。この時、十二坊も仏護寺とともに小河内の地に移されます。ここには小河内では十二坊のそれぞれが寺地を賜ったと述べられていますが、これは事実なのだとみられます。十二坊は仏護寺に従属するような寺ではなく、本来は他の仏護寺の末寺とは別格の待遇を受けていた寺です。
この後、仏護寺と十二坊は慶長十四年(一六〇九)、福島正則によって、いまの寺町の地へと移されます。十二坊は寺町でも寺地はそれぞれに与えられたといっています。仏護寺の寺内僧ではないというのです。
福島殿時、今の寺町の地に移住しけるも、一寺一寺境内をわかちあたへられたるにて、今にいたるまて仏護寺境内にあらす、寺内僧なといふ事あるへきやうなく・・・抑、仏護寺、毛利殿、愛遇のあまり、十二坊ハいつれも当国に並ひなき真宗の大地なるを撰ミ、同寺末に附給ひけるより、同寺末寺の綱領として諸末寺の上にたつへき寺法なり
そして、毛利氏は仏護寺を保護しますが、仏護寺を優遇するあまり、国内の有力な寺を選んで、それらを仏護寺の末寺にしたとあり、それが十二坊であって、十二坊はいずれも国内では並びない大きな寺であり、仏護寺の末寺のなかにあっても、末寺の中心として他の末寺より上に扱われるのが宗派内での決まりであると述べられています。元来、十二坊は仏護寺から他の末寺とは違った扱いを受けていた寺です。なぜそうなっていたのかは、毛利氏がそのようにしたのだとするなら、納得がいきます。ここに毛利氏が十二坊を仏護寺の末寺にしたという説が出てきます。
(北島恒陽 記)


