【二百九十七】仏護寺十二坊 その十九 十二坊は本願寺の直参寺院
NEW2026.09.24
『知新集』には、仏護寺十二坊は毛利氏により仏護寺の末寺にさせられたとの一節のある文が載せられています。しかし、この毛利氏が十二坊を仏護寺の末寺にしたということには、いささかの疑問ものこります。
『知新集』には文政四年(一八二一)に書かれた仏護寺の寺伝が載せられていますが、それだけではなく、十二坊といわれるそれぞれの寺の寺伝も載せられています。いずれも仏護寺の寺伝と同時期に書かれたものです。それらの寺伝をみると、自分の寺が毛利氏によって仏護寺の末寺にさせられたと述べている寺は一箇寺もありません。毛利氏が十二坊を仏護寺の末寺にしたということは、本来、十二坊は仏護寺の末寺ではなく、独立した寺であったということです。十二坊は権力者によって、意図的に仏護寺の末寺にさせられただけなのだということになります。ここからするなら、仏護寺と対立する十二坊にとって、毛利氏によって末寺にさせられたということは、最も強調されなければならないことです。それが十二坊のうちの一箇寺も自分の寺は毛利氏によって末寺にさせられたと述べていないのです。これはかなりおかしなことです。
毛利氏が末寺にしたということにはこうした疑問がのこりますが、では、毛利氏が十二坊を仏護寺の末寺にするようなことはなかったのかといえば、これはこれで、ないとはいえません。むしろ、十分にありうることです。十二坊は末寺にさせられとみられるものの、そうであるとも断言はできないということになります。
十二坊が安芸国内での真宗の有力寺院であったこととは間違いのないことです。天文十九年(一五五〇)、本願寺の証如上人は、十二坊のうちの法専坊、円竜寺、正善坊、光禅寺の四箇寺に自身の寿像を授けています。寿像とは存命中の人物の肖像画のことです。この証如上人の時代には、本願寺の住持の寿像や前住持の影像はそう簡単に授けられるというものではありませんでした。寿像や影像は主に本願寺の直参の坊主に対し授けられるものです。証如上人はこの四箇寺の住持を本願寺の直参の坊主として扱っていたのです。四箇寺への寿像は同じ日に授けられています。このことは『知新集』に載せられた円竜寺、正善坊、光禅寺の寺伝に記録されています。四箇寺の住持たちは揃って、当時、大坂にあった本願寺に赴いて、直参坊主として証如上人と対面した上で、寿像を授かったということになります。本願寺も四箇寺を有力な寺とみていたのです。
この四幅の寿像のうち、正善坊の寿像の裏書には「東坊門徒正善坊」と書かれていたのだと記されています。寿像とは別に報専坊は証如上人の裏書のある絵像の阿弥陀如来像も授けられていますが、そこには「興正寺門徒法泉寺」と書かれていたとも記されています。これらの裏書には、正善坊、報専坊の上寺として、仏護寺の名が書かれていません。ここから正善坊や報専坊、さらには十二坊は仏護寺の末寺ではなかったと主張できそうです。しかし、これだけで正善坊や報専坊が仏護寺の末寺でなかったと主張することはできません。
本願寺の歴代の住持は概ね裏書に本末関係を省略せずに書き記しています。本末関係は極めて重要なものと捉えられていたからです。ところが、証如上人だけは本末関係を省略して書くのです。本末関係が省略されて書かれた証如上人の裏書は、相当、多くあります。正善坊の寿像の裏書にしても、東坊門徒とあるだけで、その上寺である興正寺の名がありません。東坊は興正寺の末寺の東坊のことであり、興正寺の門下であることは明白です。ここでは興正寺の名が省略されているのです。これは本来なら、興正寺門徒東坊下とあるべきです。報専坊の阿弥陀如来像の裏書にしても、東坊下とあるべき部分が省略されているものとみられます。興正寺門徒東坊下法泉寺とあるべきで、法泉寺というのも報専寺、もしくは報専坊とあるべきです。報専坊はもと法泉寺と号したとも伝えられるので、それを記したともみられなくもありませんが、宛て字自体は裏書では頻繁に用いられるものです。こうした省略があるため、裏書に名がないといって、正善坊、報専坊が仏護寺の末寺ではなかったということはできないのです。正善坊、報専坊をはじめ十二坊が仏護寺の末寺ではなかったということは十分にありうることですが、この裏書だけでそうだということはできません。
証如上人の寿像は地域の有力な寺院のみに授けられるものです。天文十九年、安芸国で寿像を授けられたのは四箇寺だけです。その上寺とされる仏護寺に寿像が授けられることはなかったのでした。
(北島恒陽 記)


