【五十】「虫供養百万遍」 ~虫送りの念仏~

2019.08.26

 滋賀県近江八幡市で行なわれている廻り念仏は、病を除くとの功徳が信じられ、続けられてきた行事でした。廻り念仏は佛光寺の信仰と地元の八幡神の信仰が結びついたもので、病を避けるという庶民の素朴な願望を利益とするところに大きな特色があるといえますが、滋賀県下の佛光寺系の寺院では、もう一つこれとよく似た行事が行なわれています。

 

 それは能登川町伊庭(いば)の妙楽寺という寺で行なわれている虫供養百万遍という行事です。廻り念仏が病を除くものであるのに対し、こちらは田に虫がつかないことを願うための行事です。病の蔓延を避けるものと、害虫の発生を防ぐもので、願われる内容は違っていますが、どちらも庶民の素朴な願望であることに変わりはなく、共通した性格をもつ行事だといえます。

 

 妙楽寺の虫供養は、農業技術の発達から、さすがに現在では規模も小さくなっています。行事の形式も変わり、いまは寺で読経が行なわれるだけですが、かつては特色ある行事が地域をあげて行なわれていたことが知られています。かつての行事は地域の氏神に住民が集まり、神前に光明本尊を掛け、念仏を称えるというものです。虫供養が行なわれるのは夏の土用の三日目で、この儀式には地域の住民だけではなく、他宗の僧侶も加わって一同で念仏したといいます。

 

 妙楽寺の伝えでは、この虫供養がはじまったのは正慶二年(1333)のこととされています。その年、稲の害虫が発生し、氏神に祈っても効果がなく困っていたところ、妙楽寺にいた了念という僧が光明本尊をかかげ、念仏しながら田を巡ると、虫が去って豊作となったのだといわれます。その後、康暦元年(1379)に大飢饉が発生した際にも、この地だけは被害がなく豊作であったことから、以後、氏神の神前に光明本尊を掛けることが恒例となり、光明本尊も、豊作の名号、虫払いの名号と呼ばれのだといいます。

 

 神前に光明本尊を掛けたり、光明本尊をかかげ田を巡るというのは、真宗の行事としては不思議な行事です。しかし、これを一般に行なわれている虫送りの行事として捉えると、光明本尊が用いられているだけで、あとは普通の虫送りの行事と全く同じです。

 

 虫送りは害虫の駆除を目的に、かつてはいたるところで行なわれていた行事です。実際に虫を捕まえ、藁でできた馬に虫を乗せて村はずれまで送ったり、人形を担って田畑を練り歩き、最後は村の外に人形を送るというのが虫送りの行事です。行列の際には鉦や太鼓が打たれたり、囃しことばが唱えられたりしますが、地域によっては念仏が称えられることもあります。

 

 虫送りに念仏を称えるのは、稲の虫が悪霊の姿を変えたものと考えられていたからで、ここに虫送りと念仏が結びつく要因があります。西日本一帯では、現に虫送りの行事を実盛送(さねもりおく)りといい、稲の虫を実盛虫といっています。実盛とは平安末期の武将斉藤実盛のことですが、この斉藤実盛は没後に亡霊として扱われた人物としては代表的な人物です。世阿弥の謡曲『実盛』もこの斉藤実盛の亡霊を題材としたものです。実盛送りの行なわれるところでは、実盛は稲の切り株に足を取られて討ち死にし、死に臨んで、この稲株が無ければ死ぬことはなかった、のちの世は虫となって稲を食いつくす、と叫んだとの伝説が語られています。実盛の霊が稲の虫となったということですが、虫が霊の姿を変えたものと考えられていたことがうかがえます。

 

 虫が霊と考えられ、虫送りに念仏が称えられていたのであれば、妙楽寺の虫供養の行事もさして不思議な行事とはいえません。一般に虫送りに念仏が称えられていたことから、それを寺の行事として取り入れただけのもので、要は虫送りの行事です。

 

 この妙楽寺の虫供養と廻り念仏は、ともに現世の利益を説くところから、よく佛光寺の教化は現世利益を説くものであったといわれます。二つの行事が現世の利益を説くことは確かですが、しかし、この二つは互いに連携しているわけではなく、別々に行なわれている行事です。ここからいえるのは、佛光寺の教化も末寺の段階では現世の利益を説く教化が行われることがあったということで、ここからは佛光寺が現世利益を説いたということはいえません。末寺が現世利益と結びつきやすかったのは、佛光寺の場合には末寺の自立性が高く、活動にしても末寺が独自の活動をしていたためだと思います。佛光寺の教団が時に現世利益と結びつく原因は、そうした佛光寺の組織の性質に求められるべきでしょう。

 

(熊野恒陽 記)

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